ただ、この時期にはまだ女手形の形式がしっかり定まっていない。のちに女手形には、通過する人数、乗物の有無、出発地と目的地に加え、「禅尼・尼・比丘尼・小女・髪切の区別を明記しなければならな」(『館蔵図録Ⅰ 関所手形』新居関所史料館)いということになった。

といっても、いま述べた女性の区別がわかりにくいので、簡単に捕捉説明しよう。

まず禅尼だが、これは夫を亡くした後家や姉妹などで髪を剃り落とした女性をいう。尼は、普通に剃髪した女性のこと。比丘尼とは、伊勢上人(伊勢国宇治山田の尼寺・慶光院の住職)や長野善光寺の弟子、あるいは身分の高い人物の後家の使用人、そのほか熊野比丘尼などの女僧。髪切とは、髪の長短によらず、髪の先を切りそろえている女性。小女とは15、6歳までの振袖を着ている女子をさす。

ただ、当初は女性の個人的なことを書き込むことは少なく、もし書き入れたとしても、怪しい者ではないとか、人身売買の対象ではないといった程度であった。しかし、寛政八(1796)年からは、貴賤関係なくすべての女手形に、通過する者の身分を書き入れることになったのである。

「出女」のみならず、「入り女」にも厳しいチェックをするワケ

では、地方から江戸へ向かう女性(入り女)については、どのように対処したのだろうか。

女性の通行を許している関所は、この「入り女」についても女手形の提示を求め、しっかり検閲することが多かった。

だが、ここで疑問が生じる。江戸にいる大名の妻子や母が逃亡するのを防ぐため、「出女」を厳しくチェックしたのはよく理解できる。が、大名の統制策とは無縁なのに、どうして「入り女」の通過まで幕府は規制したのだろうか。

さらにいえば、新居関所では「関所周辺の女性が一旦関所以東へ旅立ち、期限内に再び帰っていることが明らかな場合に限って、関所奉行が手形を発行していた。こうした手形を『通手形』といった」(『館蔵図録Ⅰ 関所手形』)とあるように、関所の近隣に住む女性についても、関所を越えるには女手形を必要とした。素姓や身元ははっきりわかっているのに、だ。

歌川広重の「東海道五十三次」に書かれた荒井(新居)宿
(写真=The Sandiego Museum of Art collection/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
歌川広重の「東海道五十三次」に書かれた荒井(新居)宿

このため「関所所在地の新居宿では、関所を隔てた浜名湖(今切渡船路)対岸の村々との縁組はほとんど皆無であった」(『東海道箱根関所と箱根宿』岩田書店)ことが判明している。