奇抜プランの発端は「亀山社中」の経営危機

権力者が海の関所をいかに重要視していたかを理解していただいたところで、表題に移ろう。

坂本龍馬がつくった、日本で最初の商社といえば亀山社中だ。亀山社中は慶応元(1865)年に結成された浪士結社・貿易結社だが、龍馬はその解散を決意したことがあった。その理由は、不運が続いて経済的に苦しくなったからだ。

つまずきは、ワイルウェフ号の遭難だった。

この船は、亀山社中が薩摩藩の後援で、英国商人グラバーから6300両で購入したばかりの木造小型帆船であった。このワイルウェフ号が暴風雨に巻き込まれ、長崎県の沖合で沈没してしまう。慶応2年5月のことである。

さらに翌6月、幕府の征討軍と長州藩の戦争が勃発する。そのため約束により、社中の主力船だったユニオン号を、長州藩に引き渡さざるを得なくなってしまう。

もともとこの船は、長州藩の金で購入し、社中が借りていたものだった。船2隻を失った亀山社中は、商活動がほとんど困難な状況に陥り、営業を停止せざるを得なくなってしまう。

この頃、龍馬は、下関の豪商で支援者の伊藤助太夫にだけでも、800両もの借金をしていた。ただ、借金で社中50人を養うのも限界があった。

慶応年間撮影、左:伊藤助太夫、中央:坂本龍馬、右:伊藤家使用人(東京伊藤盛吉氏蔵)(画像=宮地佐一郎/Public domain/Wikimedia Commons)
慶応年間撮影、左:伊藤助太夫、中央:坂本龍馬、右:伊藤家使用人(東京伊藤盛吉氏蔵)(画像=宮地佐一郎/Public domain/Wikimedia Commons

そのため、水夫かこたちに暇を出したが、辞めたのは3人ほどで、残りはみんな龍馬にどこまでも付いていくと言って聞かない。そのため、仕方なく社中を継続することにしたのだが、食えない状況に変わりはない。万事休すである。

現在の関門海峡
写真=iStock.com/sangaku
現在の関門海峡

関門海峡を通る船をすべて止めて「通行税」をとる

しかし龍馬はあきらめなかった。起死回生の策として、薩長合弁商社の設立を推進したのである。

慶応2年11月下旬、龍馬は、薩摩藩の勘定方かんじょうかた(財政担当)・五代才助(友厚)と長州藩の実力者・広沢兵助(真臣)とはかり、薩長による合弁商社設立を下関(馬関)に設立する。

このとき締結された馬関商社議定書には、次のように記されている。

一、商社盟誓之儀者、御互の国名をあらわさず、商家の名号相唱え申すべく候(商社は薩長の藩名を表に出さず、商家の名を使用する)。
一、商社中の印鑑は、互いに取り替え置き申すべき事(商社の印鑑は、薩長で交換して保管する)。
一、商社組合の上は互いに出入帳を以て、公明の算を顕し、損益を折半すべき事(商社が結成されたら、薩長互いの出納帳で金銭の流れを明確にし、損益は折半する)。
一、荷方船三、四隻相備、薩船の名号にして国旗相立て置き申し候(貨物船を三、四隻常備する。船は、薩摩藩船のかたちをとり、薩摩藩の旗を立てる)。
一、馬関通船の儀は、何品を論ぜず、上下共になるべく差し止め、たとえ不差通候て不叶船といえども、改め済まず趣を以て、なるべく引き上げ置候儀、同商社の緊要なる眼目に候事(下関を通過する船は、いかなる荷物を積んでいてもなるべく停止させ、臨検する。これが本社の重要な仕事である)。
一、馬関通船相開き候節は、日数二十五日前社中へ通信の事(薩摩籍の船が下関を通過する際は、二五日前までに本社に通告する)。

このように、下関の関門海峡を通過する船舶をいったん差し止め、すべての船をチェックするとともに、通行税を取ろうという計画だったらしい。そう、海の関所である。