日本経済の大動脈を押さえて、幕府に経済的大打撃を与える

これは、かなり斬新な構想といえる。

周知のように、瀬戸内海は、当時の日本経済の大動脈である。天下の台所・大坂に集まる物品の過半は、このルートから流入した。下関の関門海峡を押さえるとはすなわち、この大動脈の一部を押さえることを意味し、日本経済にも当然影響を与えることになる。

なおかつ、一日に関門海峡を通過する船数は夥しい。たとえ微銭であっても、全船から通行税を徴収したなら、一年で巨万の富が懐に入るだろう。

龍馬は、翌年2月から下関の伊藤助太夫方に拠点を移した。助太夫の屋敷は、目の前に瀬戸内海が横たわる場所にある。10分も東へ歩けば壇ノ浦があり、石を投ずれば対岸の門司港(九州)に届きそうなほど海の幅は狭隘きょうあいである。まるで河川といってもおかしくないほどだ。

おそらく龍馬は、このあたりに税関をつくって、海を塞き止めてしまおうと目論んだのだろう。

一説には、下関を国際港にして自由貿易を奨励するとともに、関門海峡を完全に封鎖して、西国の物資集散基地を大坂から下関へ移してしまおうと企図していたともいわれる。

地形上、大坂への物資流入を完全に塞き止めるのは不可能だが、下関繁栄策によって大坂の繁栄にくさびを打つことは十分可能であり、幕府の経済的打撃は計り知れない。

まことに、恐ろしい怪物をはらんだ商社の誕生といえた。

坂本龍馬ほど「経済」を重要視した志士はいなかった

しかしながら、この商社は、結局十分機能しないまま、自然に消滅した。噂を聞いた運送業者がパニック状態になったこともあるが、やはり大きいのは、それから数カ月後、龍馬が土佐藩の後援を得ることに成功し、商社設立にこだわる必要がなくなったからだ。

おそらく、時間ができたら税関設営に取りかかろうと思っていたのだろうが、その余裕ができないまま、龍馬は命を絶たれてしまった。以後は戊辰戦争と、それに続く明治維新によって、関門海峡を封鎖する意味は消失する。

このように坂本龍馬という人は、ほかの志士とは違って、経済を重要視したことに大きな特徴がある。龍馬は、こんなことも言っている。

まず将軍職云々(大政奉還)の御論は兼ねても承り候。此余幕中の人情に行われずもの一ヶ条之在り候。江戸の銀座を京師(京都)に移し候事なり。此の一ヶ条さえ行われ候得バ、かえりて将軍職はそのままにても、名ありて実なけれバ恐るるに足らずと存じ奉り候。
(慶応三年一〇月、後藤象二郎宛書簡)

龍馬は「大政奉還ももちろん大事だが、それより江戸の銀座を京都に移して貨幣鋳造権を幕府から奪ってしまえば、将軍職がそのままであっても、幕府など恐れるにたりない」と、後藤象二郎に幕府の貨幣鋳造権を奪ってしまうことを進言している。