御家人と頼朝は一緒に鎌倉の町を作った
寿永元年(1182)3月15日、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至る道の曲がりくねりを直して、参詣のための道路の修造が始まった。
鎌倉のメインストリート「若宮大路」である。
以前から計画していたものの延び延びになってしまっていたのであるが、妻・政子の安産(8月12日に頼家が生まれる)を祈るために修造を開始したのであった。この時の様子を『吾妻鏡』は、次のように記している。
武衛手ずから、これを沙汰せしめたもう。よって北条殿已下、おのおの土石を運ばるとうんぬん。
現代語訳は、次のようになる。
「御所(頼朝)は自らこの工事の指揮を取られた。そこで北条殿(時政)以下の人々がそれぞれ土や石を運んだということである」
頼朝の陣頭指揮の下、御家人たちは自らの手で土や石を運び、若宮大路を作ったのである。もちろん、これは儀式であり、本格的な工事は専門業者や人夫がやったであろう。しかし、この儀式は極めて重要な意味を持つ。
「御家人たちは、頼朝と共に自分たちの手で鎌倉の町を作った」ことを象徴するからである。
頼朝の京都行きを止めた御家人トップ3
とは言え、鎌倉入りの時点で、頼朝自身が鎌倉をどの程度まで拠点とするつもりでいたのかは、かなり微妙である。
鎌倉入りから15日後の治承4年10月21日、反乱軍討伐に東下して来た平維盛軍が前日20日の駿府富士川合戦で甲斐源氏に敗走すると、同国賀島まで出陣していた頼朝は維盛を追って上洛(京都に行くこと)しょうとしているからである。
だが、頼朝の上洛命令に対して、千葉常胤・三浦義澄・上総広常という当時の御家人トップ3が、坂東を平定した後に西に向かうべきことを進言して諫め、頼朝は彼らの意見を受け入れて相模に戻った。
頼朝が取ろうとした行動は、寿永2年(1183)5月、越中・加賀国境、倶利伽羅峠(現・富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町)合戦(砺波山合戦)で平維盛軍を破った木曽義仲が敗走する維盛軍を追って京都を目指したのと、全く同じである。
鎌倉入りの頃には、頼朝は確固たる政権構想を持っていなかったことがよくわかる。そして頼朝が2年半後の義仲同様に、治承4年10月時点で上洛していたならば、どのような結果となったであろうか。
常胤ら3人組が主張したように、この時点では北坂東には常陸の佐竹氏(清和源氏義光流)など強大な敵対勢力が存在したのであり、さらにその背後には奥州藤原氏があった。
頼朝は坂東の経営に失敗した可能性がある。
また、シャニムニ京都に突入した義仲の末路は、上洛した場合の頼朝の運命を推測するのに役立つであろう。
三大豪族の言葉に従ったことは、頼朝にとって正しい判断であったと言えよう。しかし、これは仮定の話である。むしろ、ここで注目すべきは、頼朝が自己の意志を曲げ、三大豪族の意見に従ったという事実そのものである。