光圀は産物に賦課していた雑税を免除したり、食料を支給することで、領民の生活を支援している。この一連の施策が、光圀の名君としてのイメージを作っていく。仁政を行う慈悲深いお殿様のイメージだが、それは水戸藩の収入を減らし、支出を増やす施策である以上、財政難をより深刻にするものでしかなかった。

光圀は財政問題を解決できないまま、元禄三年(一六九〇)に藩主の座を兄の子である綱條に譲る。六十三才の時だった。

水戸光圀を変えた一冊の書、歴史書の編纂に秘めた狙い

『伯夷伝』との出会いは光圀が生まれ変わる大きな転機となったが、水戸藩そして幕府の歴史に大きな影響を与える事業に着手するきっかけとなった。『伯夷伝』を読んだことで、歴史上の人物の生きざまを介して歴史を知ることの面白さを実感した光圀は、日本の歴史を編纂しようと思い立ったのである。

武士の家に生まれたとは言いながら、現在は泰平の世であるため戦場では武名を立てることができない。歴史書を編纂すれば、少しは自分の名も後世に伝わるのではという考えがそこにはあった。光圀はもちろん、水戸藩の名前を後世に伝えようという目論見である。

中世武士の鎧
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名声欲が『大日本史』編纂の動機になっていたわけだが、水戸藩には同じ御三家でありながら、幕府からは尾張・紀州家よりも格下の扱いを受けたことへの鬱屈うっくつがあった。つまり、両家への対抗意識も、光圀が水戸藩オリジナルの事業として『大日本史』編纂に情熱を捧げた背景となっていた。

初代神武天皇から百代後小松天皇まで歴史を取り上げた『大日本史』の編纂は光圀の狙い通り、水戸藩の文化事業として後世高く評価されるが、編纂事業に伴う費用が藩財政悪化の大きな要因となったのもこれまた事実であった。編纂に携わる大勢のスタッフの人件費はもとより、全国各地への史料採訪に要した費用も相当な額にのぼった。

『大日本史』の編纂事業は光圀の代では到底終わらず、本文以外の付録的なものも含めれば明治まで掛かってしまう。このことからも、いかに壮大な事業だったかが分かるだろう。言い換えると、その事業には莫大な費用が投ぜられたのであり、水戸藩が慢性的な財政難に陥る大きな要因の一つとなった。

名声欲で始めた編纂事業のはずが、倒幕の一因に…

『大日本史』の完成を待たずに、元禄十三年(一七〇〇)に光圀は七十三才の生涯を終える。その後、『大日本史』は未完の状態ながら幕府と朝廷に献上され、出版もされた。これにより、水戸藩の修史事業の成果が全国各地へ広がっていく。