安楽死に賛成する医師は極めて例外的

それにもっと問題なのは、安楽死には医師の力が必要ということである。医師という仕事は10年、20年と修行を積み、なんとか人の命を助けようと人生をかけて自己を磨いていく職業である。医師は本能的に人を助けようとする。そういう生き物だからだ。その医師に対して安楽死を要求するのは、あまりにも酷である。この世の中には、安楽死に賛成する医師もいるだろうが(現に2020年の京都ALS嘱託殺人事件はそうだった)、そういう人間は極めて例外的である。日本で安楽死が合法化されても、安楽死をしようとする医師は絶対に増えないと思う。

安楽死に使う薬剤は、動物実験で犠死(サクリファイス)に使う物と同じである。こんな薬物で死んでいく人間に尊厳はあるだろうか。

だが、さっきぼくは、ミダゾラムで持続的な深い鎮静をかけたことがあると述べた。このことと、安楽死はどこが違うのかと問われると、ぼくには明確に答えることが難しい。持続的な深い鎮静の先には、間違いなく死がある。その死の瞬間までコミュニケーションが消えるのであれば、それは「ゆっくりとした安楽死」と批判されてもしかたない部分がある。

感情的な家族の瞬間
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死について悩むことこそが医師の正しい姿

医師は患者に心を寄せれば寄せるほど、患者の希望を受け入れようと考える。結果として、死に加担することがあることを戒めなければならない。こういうときに、医師は自己の倫理観を問われる。倫理とは自分の心を掘り下げる終わりのない思索で、無限の悩みと言える。医師は悩むことこそが正しい姿なのであり、死をオートマチックにしてはいけない。京都の事件の医師に悩みはあったのか。そこは厳しく問われなくてはならない。

ぼくの母が亡くなるとき、モルヒネが効果不十分で、弟から「つらそうで見ていられない。何かできないか?」と聞かれ、ぼくは「ミダゾラムを使ってもらうよう医師に頼んで」と言った。母が生前少しでも早くいきたいと言っていたことを考えれば、この助言は間違っていなかったと思っているが、自分の心に傷みたいなものを負っていることも間違いない。