医療現場では、回復が見込まれない患者の治療を中止する、あるいは治療を始めない「尊厳死」が行われている。自身、がんとの闘病を乗り越えた小児外科医の松永正訓さんは「特に高齢者に関して、こうした行為は今後も行われていくだろう。自分の人生をどう畳むか、今から家族や信頼できる人とくり返し話し合うことが大切だ」という――。

※本稿は、松永正訓『ぼくとがんの7年』(医学書院)の一部を再編集したものです。

がん末期のこどもを苦痛から解放する方法

松永正訓『ぼくとがんの7年』(医学書院)
松永正訓『ぼくとがんの7年』(医学書院)

死を目前にして最も身体的に苦痛を伴う病気はやはり、がんだと思う。WHO(世界保健機関)は、1986年にがん疼痛ガイドラインを公表した。ぼくが医師になったのは1987年で、このとき千葉大学病院の麻酔科の教授は疼痛緩和を専門にしていた。したがって、ぼくは研修医のときから、がんの子どもが末期になると、麻酔科の先生に病棟に来てもらい、一緒に疼痛緩和療法をやった。医師になって15年を過ぎるころには、麻酔科医の助言ももらったが、疼痛緩和ケアはほとんど自分の手でやっていた。

モルヒネ(鎮痛剤)やそれに類する薬(オピオイド)を使うと、がんの末期でもこどもはかなり痛みから解放された。痛みのコントロールがうまくいかない場合には薬の種類を組み合わせたり、変更したりする(オピオイドスイッチング)。

ただ、モルヒネだけでは苦痛が完全に消えない子もいることも事実である。その際は、ミダゾラム(鎮静剤)を使って完全に眠らせてしまう場合もある。持続的な深い鎮静をかけると、子どもは家族とコミュニケーションを取ることはできなくなり、そのまま死に至る。

モルヒネとミダゾラムがあれば、身体的な苦痛を除くことができる。だが人間にとって最も難しいのはスピリチュアルペインである。オランダでも身体的な苦痛を理由とした安楽死は多くない。これからの時代、スピリチュアルケアはますます重要になっていくはずである。そのためには、真に拠り所になってくれる他者が、患者の心に耳を澄ませていく必要があるであろう。

人間に自殺をする権利はないと考える理由

安楽死と自殺は似ているようで異なるという意見が多い。安楽死は、死が目前で、死ぬことが必然の人間が死ぬものであり、自殺とは死が予定されておらず、死ぬべきでない人が死ぬというわけだ。だが、死を目前にした人が生きることを諦めてしまい、もう安楽に死にたいと考えるのも自殺の一形態とぼくは思う。人間に自殺をする権利があるかと言えば、それはないというのがぼくの考えだ。

人は人との関係性で生きている。それは基本的に本人の都合で勝手に切っていいものではない。人は生かされて生きているのだから、生きることを人との関係性において一方的に放棄はできないだろう。

自死の権利を認め、安楽死を進めれば、日本のように人が人とのつながりで生きている国では社会が不安定になるような気がする。安楽死が合法化されれば、重篤な患者の生死に関して医療者と家族で深く話し合いが行われなくなり、死がオートマチックになる危険がある。こうした流れは歯止めを失い、重度障害者の生きる権利を圧迫する。生きる権利は反転して死ぬ権利になり、誤れば死ぬ義務になりかねない。