治療を始めないことと治療を停止することの違い

安楽死と似た言葉に尊厳死がある。しかし尊厳死という言葉は世界で日本にしかない。これはいわばニックネームであり、どういう死に方に尊厳があるかはその人の価値観によって異なる。人工呼吸器が付いていても、高カロリー輸液をしたり、胃ろうから栄養をとったりしても、一日でも長く生きたい人はいる。自分が手がけたプロジェクトが完成するまでは……自分の孫が誕生日を迎えるまでは生きていたい……こういう考えがあってもいい。生き続けることが尊厳という考え方を尊重しないといけない。

一般には、尊厳死とは治療の停止・治療の差し控えを意味する。ぼくはここでは今述べた理由から尊厳死という言葉は使わない。「差し控え」という言葉も分かりにくい。これは治療を「始めない」という意味だ。治療の停止や治療を始めないことは、ぼく自身も何度も経験してきた。ただ、この両者にはかなりの違いがある。治療を始めないことは医師として決断しやすいことであるが、治療を停止することは相当難しい。

前者は、例えば多臓器不全になって救命の見込みがなくなったときに、腎不全を合併しても血液透析を開始しないことが、それに当たる。後者はやはり末期の状態に至ったとき人工呼吸器を止めて、気管内チューブを抜くことである。やはり、呼吸器を止めるという行為は医者にはつらくてなかなかできない。

医療現場での“尊厳死”はなぜ罪に問われないのか

だが、現在、時代の流れは、重い障害を負って回復が見込まれない患者に対しては治療の中止や、開始しないことは、国が公認するような形で堂々と行われるようになってきている。

2017年6月5日、NHKクローズアップ現代+で『人工呼吸器を外すとき 医療現場 新たな選択』という番組が放送された。帝京大学病院高度救命救急センターで、家族の同意のもと、意識の戻らない患者の人工呼吸器を外す場面が映し出された。これは衝撃的だった。医療の中でこうした行為が罪に問われない理由は、厚労省のガイドラインの存在によるところが大きい。

2006年に射水市民病院で、外科医が末期患者から人工呼吸器を外して何人もの死者を出すという事件があった。警察の捜査が入り書類送検となったが、医師は不起訴になった。これをきっかけに各学会や日本医師会から終末期医療(のちに人生の最終段階という言い方になる)のあり方に関してガイドラインや勧告が出されるようになった。

その中でも、「救急・集中治療における終末期医療に関するガイドライン――3学会からの提言」(日本救急医学会・日本集中治療医学会・日本循環器学会)は影響が強かったように思う。ガイドラインに共通しているのは、治療を停止したり差し控えるときは、患者本人の意思が何よりも重要であり、医療スタッフはそれを確認し、尊重すべきという考え方だった。