コロナ時代だからこそ「人生会議」を
日本には、安楽死はともかく(いわゆる)尊厳死を認めるべきだという意見を言う識者や政治家が多い。2014年にNHKが行った調査では、安楽死に賛成する人は72%、(いわゆる)尊厳死に賛成する人は82%だったと報道されている。日本尊厳死協会も尊厳死を法制化しようと活動をしている。
しかし、そうした意見や活動には今や大きな意味はない。医療の現実が先に行っている。治療の中止や差し控えは、今後もきわめて予後不良な患者、特に高齢者に関しては行われていくはずだ。ぼくは2021年3月に、コロナ禍の医療トリアージで高齢者の機械的な切り捨てがあってはならないと朝日新聞「私の視点」で主張した。この考えは今も強く持っている。
コロナ禍の時期、多くの医者と話をしたが、「コロナ時代の今だからこそ、自分の人生の最終段階をどう生きるか家族と話し合ってほしい」と成人の医療を行っている先生たちがよく言っていた。ぼくはその意見に納得する。ぼくにはまだまだ生きてやりたいことがいくつもあるが、すべてやり切ったときは、人生の畳み方を考えるだろう。ぼくの母が「少しでも多く財産を子どもたちに残したいから、私はもういい」と言った言葉が蘇ってくる。
「いかに死ぬかは、いかに生きるか」
ぼくの親友で新生児科の医師は、たくさんの赤ちゃんの死を見てきた末に「いかに死ぬかは、いかに生きるかと同じだ」という境地に達したという。その気持ちはたいへんよく理解できる。
ぼくも100人以上のがんの子どもや先天異常の赤ちゃんの最期を看取ってきた。がんの子どもには、ただひたすら「痛くない」時間をつくった。モルヒネもミダゾラムも使った。赤ちゃんの心臓が止まりそうになったときには、人工呼吸器から外してお母さんの腕の中で逝かせてあげた。人生の最後を整えることは、その子を生かすことになる。そこから物語が生まれて家族は再生していく。そういう家族をいくつも見てきた。
ぼくももう少しよく生きて、生き切ったら、よく死のうと思っている。