誰しも社会のどこかの部分で何かに特化している

われわれの知識は「知ってるつもり」であることが圧倒的に多く、日常の多くはそれで間に合っているというのは紛れもない事実です。

では、われわれの知識はすべて「知ってるつもり」のレベルで構わないかというと、それはまったく違います。われわれは、ミシンやハサミの専門家、貨幣や紙幣に関わる技術者、各種交通機関の維持運営に関わる専門的な従事者、などなどの「専門的な知識」を持つ人たちのおかげがあって、「知ってるつもり」程度の知識で日常を円滑に送ることができているのです。ですから、社会が「知ってるつもり」程度の知識で動いているわけではありません。むしろまったく逆です。

また、われわれ自身も社会運営のどこかのセクションで何かに特化して労働したり活動したりしています。そのセクションで必要とされる知識のレベルは、日常生活での「知ってるつもり」などというレベルではないはずです。

教育の場で教えられる知識も「知ってるつもり」になりやすい

われわれの日常的な活動は大まかなところ「知ってるつもり」の知識で間に合っていますし、また間に合わせているわけです。しかし、その知識ではどうも具合が悪そうだとなれば、日常生活においても当該知識の点検をしなければならなくなるでしょう。

西林克彦『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』(光文社新書)
西林克彦『知ってるつもり 「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方』(光文社新書)

また専門的に活動している領域で、新たな開発や隘路あいろの克服に従事しなければならないかもしれません。そうなれば、必要に応じて常識レベルや専門領域での「知ってるつもり」を乗り越えなければなりません。

しかし、「知ってるつもり」から前に進むことは、簡単ではありません。自分の知識が不十分であっても、疑問を持っていないのですから最初のステップが踏み出せないのが普通です。

それに、世の中には「知ってるつもり」の知識が横行しています。白熱した議論や、探索の話し合いでお互いに相手や自分の考えをハッキリ確認している場ならともかく、普段やりとりする情報・知識の類いはまず「知ってるつもり」のものが大部分といってよいでしょう。

そして、残念なことに教育の場でも、そこで教えられている知識は、他との関連が薄く発展性のない「知ってるつもり」になりやすいものであることが圧倒的に多いのです。

教育界で、この頃とみに学習の浅い深いが問題になっています。知識は獲得するのですが、応用や活用において十分ではないと意識されるようになっています。知識の活用や自主的な活動や集団での討議といったことが従来からも強調されてきたのですが、どうも学びの質が不十分ではないかと意識されるようになりました。教育で得た知識で学習者が「知ってるつもり」になるようであれば、伸びていく学習者を育てているとはとても言えないでしょう。

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