旧日本軍の将校だった小野田寛郎さんは、1945年に太平洋戦争が終結してから30年近くの間、日本の敗戦を信じずフィリピンで戦闘を続けていた。日本の捜索隊が100人以上訪れたにもかかわらず、なぜ小野田さんは戦争をやめなかったのか。自身の手記『たった一人の30年戦争』(東京新聞)より一部を紹介する――。

私の戦争を終わらせにきた一人の青年

春、終戦の日がやってくる。

10月8日に公開された、小野田寛郎さんの半生を描いた映画『ONODA 一万夜を越えて』
10月8日に公開された、小野田寛郎さんの半生を描いた映画『ONODA 一万夜を越えて

私の“終戦記念日”は、昭和四十九年、元上官の谷口義美少佐から「任務解除命令」を受け、フィリピン空軍司令官に投降した三月十日である。

この季節になると、私はもう会うこともできなくなった一人の青年を思い出す。鈴木紀夫君(昭和六十一年十二月、ヒマラヤで遭難死)。私の運命を百八十度転換させた男である。

「おいッ」

私は男の背後から声をかけた。

炊事のため火を燃やしていた男は立ち上がってこちらを見た。大きな丸い目、長髪、青黒いズボン(ジーパン)でサンダルをつっかけている。

「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と繰り返し、彼はぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。手が震えていた。

私は腰だめの姿勢で銃を構えていた。安全装置をはずし、右人差し指が引き金にかかっている。顔を男の真正面に向けたまま、眼球だけを左右に走らせた。人の気配がすれば男を射殺する。

「小野田さんですか?」

男はうわずった声で聞いた。

「そうだ、小野田だ」

「あっ、小野田少尉殿デアリマスカ」

急に軍隊調になった。

「長い間、ご苦労さまでした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」

私は彼を怒鳴りつけた。

「オレには戦争は終わっていない!」

敵が日本語のできるやつを送り込んできたのか?

私は四日前からジャングルの斜面に立ち、この青年の行動をずっと監視していた。彼は捜索隊が「和歌山ポイント」と呼ぶ川の合流点に、白い蚊帳かやのテントを張っていた。野営するからには狙撃兵を連れた討伐隊か、パトロールに違いない。

私は軍帽と上着を裏返しにして小枝の葉で擬装し、監視の輪をしだいに狭めていった。

落日を背に青年に接近した。

「小野田さん、陛下や国民が心配しています」

「お前はだれの命令を受けてきたのか?」

「いえ、単なる旅行者です」

(怪しい男だ。敵が日本語のできるやつをオトリに送り込んできた)

私は警戒心を強めていた。

ただ一つ、男には私に銃の引き金を引かせることをためらわせた点があった。サンダル履きのくせに、毛の靴下を履いていた。軍人ではない。もし住民だとしても、靴下を履く階層は靴を履く。

昭和四十九年二月二十日、ルバング島山中。これが私に祖国日本への生還の道をひらいてくれた鈴木紀夫君との遭遇だった。このとき、彼は二十四歳、私五十一歳。

のちに知ることだが、日本の敗戦から三十年近くがたとうとしていた。