後の昭和四十九年三月、上官・谷口義美少佐の命令を受けて私が投降したとき、隊長のアサンサ少佐に『大統領命令で取り調べは禁止されているが』と、未解決凶悪事件のリストを見せられた。百件ほどの死傷事件(※)が並んでいた。

※小野田さんは1974(昭和49)年3月、谷口少佐からの命令で任務解除を認識、マルコス政権下のフィリピン軍に身柄を拘束され、日本政府に引き渡された。当時のマルコス大統領は「オノダの過去のすべてを赦す」と恩赦を与え、小野田さんが起こした刑事事件を不問としている。

いささか余談になるが、何年か前、ある講演会で「私は本当にそう信じ込んでいたので、いまだに日本の政府が、アメリカのカイライ政権に見えて仕方がないんです」といったら、爆笑とともに拍手をもらった。

今や経済大国になっているなんて信じられない

星が降るような夜空だった。ルバング島の二月の夜は、肌寒いほど冷え込んでいた。時刻はもう真夜中を過ぎているだろう。

夜
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私は日本の現状について、質問をつぎつぎと鈴木紀夫君にぶつけてみた。

彼の答えは私が、捜索隊の置いていった新聞や雑誌、敵から奪取したトランジスタ・ラジオで知り得た知識から一歩も出るものではなかった。

(本当のところはどうなんだ。日本本土は米占領軍のカイライ政権下にあり、真の日本政府は満州で健在なんだろう?)

だが、敵か味方かわからないこの青年に、単刀直入に真相をただすわけにはいかなかった。

「小野田さんはどうも納得してないようだけど、ボクの話で、日本は敗れたとはいえ、いまは立派に復興して世界有数の経済大国になっている事実がわかってくれたでしょう」

私は冷たくいった。「ああ、君の話は実につじつまが合っている。オレの持ち合わせの知識では論破できない。しかし、世の中には小説というものがあるからな。君の今晩の話は、よく出来た『小説・日本敗戦記』として承っておくとしよう」

鈴木君は「あーあ、バカらしい。もう話すことはない」といって仰向けにひっくり返り、ジンの酔いも手伝ってか眠り込んでしまった。

夜が明け始めた。

ついに私への命令書が届く

鈴木紀夫君と別れてほぼ二週間がたっていた。

私はフィリピン空軍レーダー基地を偵察するため「ヘビ山」に登った。「あてにしないで待ってるよ」と彼にいった通り、期待するものは何もなかった。

近くのヤシ林の方向で住民の声が聞こえ、捜索隊が設けた連絡箱があるのを、ふと思い出した。

(敵の手の内でも見ておくか)

箱にビニール袋がりつけてあった。あのとき鈴木君が撮った私の写真が二枚入っていた。