なぜ応仁の乱は11年間も続いたのか。東京大学史料編纂へんさん所の本郷和人教授は「戦のきっかけは足利将軍家の跡継ぎ問題だが、それ以上に重要なことがある。それは、瀬戸内海の交易権をめぐる経済戦争としての側面だ」という――。

※本稿は、本郷和人『日本史の論点』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

歌川芳虎(江戸時代)の作品
歌川芳虎(江戸時代)の作品(写真=Japanese-finearts.com)

八代将軍・義政には長いこと子どもができなかった

「応仁の乱」(一四六七~一四七七年)のきっかけについては諸説ありますが、「原因は足利あしかが将軍家の跡継ぎ問題だった」というのが定説です。

当時の室町幕府がどんな状態だったかというと、くじ引きで選ばれた六代将軍の足利義教よしのりが暗殺され、義教の息子である足利義勝よしかつ(一四三四~一四四三年)が七代将軍に就任していました。ところが、義勝はまだ幼いうちに亡くなってしまい、八代将軍として義勝の弟である足利義政よしまさ(一四三六~一四九〇年)が選ばれました。

義政は、銀閣寺を建てた人としても知られていますが、長いこと子どもができませんでした。次の将軍をどうするか考えた際、義政は「自分の弟に僧侶になっている者がいるから、彼に将軍の位を譲る」と言い出しました。ところが、その出家した弟にそのことを伝え、還俗げんぞくしてもらおうとすると、難色を示されます。

弟が還俗したあとに息子が産まれる

弟からしてみれば、父の六代将軍である義教は暗殺されているし、将軍になることが良いことのようにも思えない。だから「義政兄さんはまだ若いから、子どもができるかもしれない。もし息子ができた場合、自分がいたらどうせ邪魔にされるだろうからイヤだ」と、断りました。しかし、義政は、「大丈夫だ。どんなことがあってもお前を後援するから、還俗して自分の跡を継いでくれ」と言う。

そこまで言われるのなら仕方がないと、還俗し、足利義視よしみ (一四三九~一四九一年)と名乗るようになりました。

ところが、人生とは皮肉なものです。そんな話をした翌年、足利義政の妻である日野富子ひのとみこ(一四四〇~一四九六年)が息子を産んでしまいます。それでも、八代将軍の義政は「息子は生まれたものの、弟と約束している以上、将軍職は予定通り弟に譲る」と考えていました。還俗した義視の立場からすれば、「あれだけ強く約束したのだから、息子が生まれたからといって、約束を反故ほごにするのは勘弁してくれ」と主張するのは当然です。でも、日野富子にしてみれば、自分がお腹を痛めて産んだ子を将軍にしたい。そこで、九代将軍に誰を据えるべきかという問題が勃発しました。