継父からの虐待、母親への愛憎

プラス、母に対する当てつけもあったのではないでしょうか。

現在、秀吉の父として知られているのは弥右衛門と筑阿弥という人物です。このうち弥右衛門が秀吉の実父とされ、筑阿弥のほうは母の再婚相手とされますが、彼は病に冒されており、小和田哲男は、「生活がぎりぎりという状況では、なにか些細なことでも衝突の原因となり、秀吉はしょっちゅう継父筑阿弥に折檻される状態だったことが予想される」(『豊臣秀吉』)としています。

そんなことから秀吉は父のみならず、そういう父と結婚した母に対しても恨みの気持ちがあったのではないか。

一般的には秀吉は母思いと言われており、母の訃報を聞くと、「気絶してしまった」(“たえ入給ひてけり”)(『太閤記』)と伝えられるほどです。

が、母への愛と憎しみは必ずしも矛盾するものではありません。タネ違いの若者を、母にわざわざ子であるか問うた上、即座に処刑してしまうというようなことは、秀吉の母への思いが愛憎相半ばするものであればこそ、でしょう。

秀吉が兄弟姉妹と認める3人にしても、妹の朝日姫は44歳で夫と離縁させられ、家康に輿入れさせられているし、姉・日秀は、子の秀次を、その妻子に至るまで処刑されています。

甥・秀次は切腹、妻子はことごとく処刑…

秀次は、実の叔父である秀吉に家督を譲られ、関白になりますが、秀吉の側室となった浅井茶々(淀殿)が秀頼を生むと、謀叛の疑いによって切腹させられました。しかも秀次の首と妻子は「手厚く葬られることなく、そのまま三条河原に埋められ」、その埋葬場所は「畜生塚」(渡邊氏前掲書)と呼ばれたのです……。

鴨川にかかる三条大橋
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秀次は、秀吉の家督を継いで以来、“御行跡みだりがはしく、よろづあさはかにならせられ”(『太閤記』)とも伝えられますが、フロイスによれば「万人から愛される性格の持主」(『フロイス日本史』)、「弱年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった」(同前)ともいい、いずれにしても、妻子に至るまでまともに埋葬もされぬとは尋常ではありません。

我が子や孫たちを殺されたあげく、夫も連座して流罪になった秀吉の姉・日秀は、翌年、出家しています。

極端な没落や成り上がりといった階級移動が、時に家族殺人に至るほど大きなストレスとなることを思うと、継父に虐待的に扱われ、乞食生活までしていた(服部氏前掲書)秀吉の肉親たちが、のちに前代未聞な出世を遂げた秀吉によって人生を振り回されたのも、ゆえなしというわけではなさそうです。