東国はフロンティア

こうした富豪による大土地経営が大規模に展開されたのが、とくに東北地方だった。

当時、畿内や西日本は政治・経済の中心地であったということもあり、田畑の開発は限界近くまで進み、飽和状態に近かったが、東北地方はいまだ未開の荒野が広がるフロンティアだったのである。そこにはまだ土地は無限にあり、労働力を投下すればするだけ、富を生み出す余地があった。

さきの「自然居士」で、人買いたちが大津から琵琶湖を渡ろうとしたことを思い出してほしい。彼らは少女を最終的には陸奥国へ売り飛ばそうとしていたのである。また「隅田川」でも、梅若丸はやはり都から武蔵国へと連れられていった。

当時、身売りしたり、かどわかされた少年・少女は、フロンティアである東国に投入されるというのが定番だったのだ。

そのためか、陸奥国の戦国大名伊達稙宗だてたねむね(1488~1565)が定めた領国内の法律(分国法)には、下人の所有をめぐる主人間のトラブルに関する規定が具体的で目立って多く、逆に土地領有をめぐる規定は少なく、内容も形式的である。

それだけ当時の東北地方では、労働力の奪い合いが紛争の焦点になっていたのだろう。中世末期の日本の農業開発は、彼ら下人たちの辛苦で担われていたのである。

日本の農業労働者のスケッチ
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飢饉で認められた「人身売買」の特例措置

それにしても、人間をまるでモノのように売買する「人身売買」などと聞くと、現代に生きる私たちは、まったくおぞましい忌むべき話にしか感じられない。ところが、話はそう簡単に善/悪で割り切れるものではなかった。

延応元年(1239)4月、鎌倉幕府は次のような法令を出している(現代語訳)。

一、寛喜かんぎの大飢饉ききん(1230~1231)のとき、餓死に瀕して売られた者については、彼らを買い取って養育した主人の所有を認可した。本来、人身売買はかたく禁じられていることであり、これは飢饉の年だけの特例措置である。しかし、その後になって、身売りした者を飢饉のときの安い物価で買い戻そうというのは、虫が良すぎる話である。ただし、売買した双方が納得ずくで現今の相場で買い戻すのなら問題はない。

寛喜の大飢饉とは、日本中世を襲った飢饉のなかでも最大級のもので、当時「全人口の3分の1が死に絶えた」(『立川寺年代記』)といわれたほどの大災害である。わが国では古代以来、原則的に人身売買は国禁とされていたが、このとき鎌倉幕府は時限的に超法規措置として、人身売買を認可したのである。その理由は、餓死に瀕した者を養育した主人の功績を評価して、とのことだった。