「記憶にございません」は嘘の世界の大発明だ
しかし、政治家や官僚ともなると、依然として嘘と無縁ではない。公然と嘘をつけば、後で問題は大きくなるので、彼らはなんとかはぐらかそうとする。典型的なのは、「記憶にございません」という答弁だ。
記憶にあるのかどうか、それを確かめることは容易ではない。当人の頭のなかの問題だからである。記憶があると答えてしまえば、そのことが本当なのかどうかが問われる。それを回避する際には、「記憶にない」という答えは都合がいい。嘘の世界の大発明である。
このことに関連して重要なのは、官僚の場合、その背後に官僚組織が存在していることである。
官僚は組織のなかで仕事をしており、それぞれが与えられた役割をこなしている。その立場にあるから、そうした行為に及んでいるわけで、個人の意思によって、あるいは個人の願望によって仕事を選び、政策を実行に移しているわけではない。
そうした構造がある以上、官僚組織は個々の官僚の責任が問われても、それをかばい、その人間を守ろうとする。官僚が実際に処罰を受けたとしても、組織は挽回への道を用意する。ほとぼりが冷めた時点で、何らかのポストを与えるのだ。そうしたことが期待できるからこそ、その場ではぐらかし、時間稼ぎをしようとするのである。
組織に尽くすことが重要視される日本
これは中国の孝という考え方に近い。中国では子が親のために、親が子のために嘘をつくことは、それぞれを守るために不可欠であると考えられている。
日本では、孝よりも忠が重視され、組織に対して忠を尽くすことが何よりも重要であるとされてきた。それも、組織を構成する人間が、自分を犠牲にしても組織を守ろうとすれば、組織はそれを見殺しにはしないからである。
官僚組織以外にも、そうした組織は存在する。代表的なものが反社会的勢力、組織暴力団だ。やくざ社会においても、その構成員には命を捨てても組織に尽くすことが求められる。そして、そうした行為に及んだ人間には、組織は必ず報いようとする。
あるいは、左翼のセクトなども、同じような性格を示す。セクトは、指名手配されているメンバーを守り通そうとする。それは世間にむかって嘘をつくことになるが、彼らは市民社会のあり方を根本的に否定しているので、嘘をつくことに呵責の念を抱くことはない。中世キリスト教社会の異端とまったく同じだ。