実は、食料は十分に足りているという事実
持続可能な開発目標、SDGsが掲げる17の目標の2つめ「飢餓をゼロに」にもあるように、世界の食糧危機問題はいまだ深刻だ。しかしながら実際には世界の穀物生産量だけを見てもそれは足りており、“きちんと行き渡ることさえできれば”世界中の人が食べられる十分な量が毎年つくられているのだ。
そうであるにもかかわらず、誰もが知っているとおり世界にはその日食べるものに困っている人が約7億人存在するといわれている。過去50年間で最悪の食糧危機に陥っていることも国連は警告した。一方で国際社会は、SDGsの中で2030年までに飢餓をゼロにすることを目標と設定している。
世界のどこかで誰かが困窮していることは知っていたとしても、実はわが国日本にも“その日の食事に困っている”人々がいるのをあなたはご存じだろうか? 生活水準の高い国だからこそ、その豊かさに隠れて、実は食糧難に陥っている人が身近にいるとしたら、あなたは何を思うだろうか。
豊かさに覆われて、気づかれない貧困層がいる
実際に住んでいる私たちでも日々実感するように、日本はどこに行っても清潔で、サービスが行き届き、公共の乗り物は発達し、道路もきちんと整備されている。普段の暮らしを見渡してみれば、自分も含め多くの人がスマホや携帯電話を所持し、きちんとした身なりで職場に通い、コロナ禍にある今はひとり一台パソコンを所持し当たり前にリモートワークを行っている。
食料廃棄量は年間600万トンを超え、足りないどころかあり余っている印象さえあるわが国日本。ゆえに、貧困について考える機会もあまりないといえる。けれど、だからこそ見逃してしまいがちなのが身近に潜む貧困層の存在なのだ。
事実、“貧困”という言葉から連想するのは、着るものや住むところがなく、いつもお腹をすかせている様子を想像してしまうのではないだろうか? しかしながら日本のように豊かな国に存在する貧困層は、きちんとした身なりに関わる被服費や、昨今のコロナ禍で急速に整える必要があった通信関連費などに費用がかかり、食事を削ってでもそれらを優先している“隠れ貧困層”をいう。生活水準が高い国だからこそ、そこに見合っていない格好をしていると社会的に認められない側面があるため、さらに食にかける予算が圧迫されるというわけだ。
この場合、当然見た目には貧しいということがわからないため、自ら声を上げない限り助けは来ない。つまり食料不安を抱えたまま暮らす可能性が大いにあるのだ。ちなみにその国や地域の水準内で比較したときに、大多数よりも貧しい状態のことを「相対的貧困」というが、そのような家庭が2015年当時で日本では15.6%存在し、7世帯のうち1世帯がそれに当たるとされる(出典:内閣府「国における子供の貧困対策の取組について」)。これは、国や地域の水準とは関係なく、生きるうえで必要最低限の基準が満たされていない「絶対的貧困」とはまた異なるものだが、それでも予想以上に多く、驚くべき数字ではないだろうか。