では、理論に棲み込むとは、どういうことか。ポランニーは、数学理論なら数学理論を使って問題を解くことだと言う。理論の概要や構造について解説を聞いただけでは理論の理解度は高くない。その数学理論をいろいろと使いこなして初めて、その理論の裏も表も、つまりその可能性を十全に理解できるというのだ。

事物はどうか。対象となる事物に棲み込むということは、その事物を、外からの目でもって何かと決めつけるのではなく、その事物のあらゆる可能性について考えを及ぼしてみることである。その事物は、確かに事物としての境界をもつという意味では有限であるが、その可能性としては無限である。たとえば、今私が座っているこの椅子を考えてみよう。今はこの椅子に座って、この原稿を書いている。だが、もし、部屋の天井の電球が切れたら、この椅子を踏み台代わりに使って電球を替えようとするだろう。もし、地震が起こって窓が開かなくなり、外に出られないという状況になれば、この椅子を窓ガラスにぶつけてガラスを割って外に出る。対象の使い方を変えていく。つまり、対象の意味を自由自在に読み替える。こうした対象の意味の読み替えは、たぶん猿にもできる。だが、コンピュータにはできない。あらかじめ定義された用途を外れて新たな用途として事物の意味を読み替えることはできない。

事物に棲み込むというのは、その事物に対する固定した見方を避けて、その事物に即して新たな意味や可能性を見つけていくことなのである。思いつくだけの可能性を列挙するのは簡単だが、それを前提としてさらに可能性を思いつくのは難しい。

科学の世界で肝要とされる「認識優位」の立場

人、理論、事物等々、何であれ対象に棲み込むというのは、こうしたことを言うのだ。人を、男か女か、歳はいくつで、どこに勤めていて、……といったその人の属性だけで見ていては、普通の人と同じレベルでしか人を理解できない。あるいは、「その理論、知っている」というだけでは、その理論を使いこなしている人に比べて知っているレベルは低い。その理論を使って何度も問題を解く。つまり、その理論のあらゆる可能性を探って初めて、理論の理解が万全になる。事物についても同じだ。椅子を椅子として見ているかぎり、そこからほかの人とは違った世界を切り開く手がかりを得ることはない。椅子のあらゆる可能性のさらにそのまた可能性を考えようとするところから、新しい展望、インサイトが現れる。

ポランニーが言う「対象に棲み込む」とは、結局、ある対象があったとして、あらかじめ存在するところの何かの視点でもって理解しようとするのではなく、その対象との距離を徹底的に縮め、その可能性を、既存の視点に影響されることなく把握してしまおうとするプロセスだと私は考える。