生活を共にして「人に棲み込む」人類学の研究手法

人には、「知らないうちに知ってしまう」力(tacit knowing)がある。では、その暗黙の知に対して、暗黙だという理由でわれわれは迫ることはできないのか。近位項と遠隔項との間を、なんとか行き来できないものか。モンタージュ写真はかなり当人に似たところまで顔を再現できることを思うと、それは決して不可能ではない。ポランニーもそう述べる。そして、この課題に対してかなり積極的に1つのアイデアを提唱する。

ポランニーが強調するのは、「対象に棲み込む」という方法である。眼前にある手がかり、あるいは対象(つまり、近位項)から、その背後にある「意味ある全体」を見通すには、その対象に棲み込むことが必要だと言うのである。対象に棲み込むという場合、その対象には、人もあり、理論もあり、事物もある。そのうち、人に棲み込むというのは比較的わかりやすい。

人に棲み込むとは、その人の立場に立って、その人の気持ちになること。その人の視線で周囲を見る。その人の気持ちがわかる。その人が、何に苦労し、何に楽しさをおぼえているのか理解できる。これはひとつの研究の手法である。文化人類学でよく用いられる。文化人類学も昔は、見知らぬ土地に行ってそこの文化を把握するために、もっぱら機能分析を用いていた。ある民族の雨乞いの儀式を見て、「その雨乞いが、その民族の社会と文化の維持のために、いかなる機能を果たしているのか」といった類の問題意識である。

だが、それだけでは、その雨乞いに出ている人たちの気持ちは理解できない。その雨乞い自体の機能的意味はわかっても、本当はどういう性格のものなのかわからないままだ。つまり、その人たちが儀式に参画するのは、何かへの畏れなのか、政治的な強制なのか、それとも自身の喜びに直結したものか。可能性はいろいろあるだろうが、どうなのかわからない。彼らのそうした気持ちを理解するためには、彼らと生活を共にし、彼らの喜びや悲しみを共有し、彼らが交わす冗談が理解できるようになることが肝心である。そうして初めて、雨乞いという儀式が、彼らにとってどういう意味をもつものかが見えてくる。こんなアプローチが人類学の得意とするやり方だ。そのために、人類学者は、何年も現地に住んで、その文化の中で生活を共にするという研究方法をとる。

それがさらに進んで、その人の痛みを自分の痛みとして感じることもある。母親が、車に轢かれそうになっている幼子を助けようとしても足が竦んで動けない。あるいは自分の育てた部下がその仕事ぶりを厳しく自分以外の者に叱責される。そんなとき、わが身はその人に延長し包み込んでいることになる。