長野の寂れた温泉地にタイロスおじさんたちはいるのか

お盆の週末、夜の街が盛り上がり始める20時ごろ、「新世界通り」と書かれたゲートをくぐる。この通り一帯が歓楽街のようだ。入り口付近の店には明かりがついておらず、街全体が暗い。

上山田温泉街にある新世界通り。
撮影=藤中一平
上山田温泉街にある新世界通り。

通りの奥のほうから、パブやスナックの看板とみられる明かりが見える程度。営業はしておらず、「貸店舗」の張り紙がドアにある店もある。奥へ進むと射的屋が目に入った。浴衣姿の家族4人が歩いており、やっと人がいたとホッとする。地方の寂れた温泉街というのが第一印象だ。

貸店舗になっているパブも多い。
貸店舗になっているパブも多い。(撮影=藤中一平)

創業60年という射的屋で遊びがてら、店主のおじさんにこの夏の現状とタイパブ目的で来ているおじさんたちがいるのかを聞いてみる。

「タイ好きどころかとにかく人が少ないよ。お盆の時期は普段に比べて人出が多いので、例年みんな店を開けるけど、コロナの影響で売り上げが少ないとわかりきっているので閉めている店が多いね。安心して飲めるいい店を紹介してあげたいけど、言ったとおりでそこは休んでいるから私からは紹介できない。ぼったくる店も数店あるから、安全を保障できないのでね」

射的で遊んだ客に、スナックやパブを紹介する案内所的な役割も兼ねているようだ。店を出て再び街を歩くと、目に入るパブの数が多くなってきた。韓国系の焼肉屋やタイ古式マッサージ店なども点在している。

しかし、タイ好きおじさんどころか歩いている人の姿すら見つからない……。すでにはじまっているGo To キャンペーンの効果も薄く、コロナ禍の影響はかなりのものだと感じた。

いつのまにか、韓国人がタイ人を管理するようになった

千曲川を挟み、明治26年に開湯した戸倉温泉。続いて明治36年に開湯した上山田温泉を合わせた一帯が、戸倉上山田温泉と呼ばれる。明治から善光寺詣での精進落としの湯として栄え、最盛期の昭和40年代には歓楽的な温泉街として、利用客が年間100万人にのぼった。

夜が更ける前の上山田温泉街から、千曲川を望む。
撮影=藤中一平
夜が更ける前の上山田温泉街から、千曲川を望む。

千曲川に架る万葉橋近くの川沿いには、著作家で作詞家の山口洋子氏が作詞した「千曲川」という曲の歌碑があり、その前にある緑のボタンを押すと曲が流れる。夜に通りかかると、曲を聴きながら涼む地元の人がおり、長閑な時間が流れていた。温泉街の後にある暗い山には赤く光る「戸倉上山田温泉」の文字のライトあり、哀愁が漂っている。

射的屋の店主によれば、この温泉街にはじめて外国人ホステスがやってきたのは昭和50年代のことだったという。

タイパブが集まる通りが複数ある。
タイパブが集まる通りが複数ある。(撮影=藤中一平)

「当初はフィリピン人ばかりだったんだが、それがやがて韓国人ホステスに変わったんだ。ところが、その韓国人ホステスたちはより稼げるアメリカへ流れた。その隙間に、タイ人ホステスが入り込んできたんだ。一時期は韓国人ホステスとタイ人ホステスの対立もあったようだが、韓国人ホステスが少なくなるにつれタイ人ホステスがメインのパブ街になっていったんだ」(射的屋の店主)

一部、上山田温泉に残ってホステスをしていた韓国人女性や、ほかの歓楽街からきた元ホステスの韓国人女性たち店がママとなり、タイ人ホステスたちを管理する側として店を経営するようになった。

しかし、コロナ禍でほとんどのタイ人ホステスが帰国してしまい、新しい子も来日できない。多いときは100人以上のタイ人ホステスいたというが、現在は残っている20人ほどが、店と店を行き来しながら複数店舗を回しているのが現状であった。