「宗教者足り得るのは霊魂を操って鎮められる力を持っていること」
こうした死の予知と似たような現象として、「お迎え」がある。
お迎えは、亡くなろうとしている人が病床の中で、仏菩薩などの信仰の対象や、先に逝った人(多くは両親などの肉親や親しかった友人)を目撃することである。亡くなる数日前に、本人から「お迎えが来た」などと教えられるケースもあれば、看取りを行った親族や医療関係者らがその様子から「明らかにお迎えが来ているようだ」などと客観的に判断する場合もある。
お迎え現象の体験談は、葬式の後、遺族である檀信徒から、エピソードとして菩提寺の住職に持ち込まれることがある。
「檀家から『お迎えがあったようだ』、などとの報告は一度や二度ではありません」(浄土宗住職)
僧侶は「死を看取る」という特性上、お迎えを目の当たりにするケースが多いと考えられる。
宗教者が宗教者足り得る理由。それは、つまるところ「見えざる存在」をいかに説くか、といいうことかもしれない。宗教的な叡智を、「オカルト」ではない手法で指し示せるか。ある、京都の浄土宗僧侶がこう言ったことが印象に残っている。
「生と死の世界の境界にあって、それをつないだり、断絶させたりできるのが僧侶です。言うまでもなく学者や葬儀業者に、こうした宗教儀式は無理です。宗教者が宗教者足り得るのは、霊魂を操って鎮められる能力を持っている、またはそう周囲から思われていることが大切なのです。そこを疎かにしていては僧侶の存在意義はありません。霊魂に真剣に向き合う力が今、僧侶に試されているのです」