長女の息からは胃液の酸っぱいにおいがした
親子が椅子に座ったのを確認した後、筆者は長女に向かってあいさつをしました。
長女は軽い会釈でそれに応じ、抑揚のない声で話しはじめました。その声は注意していないと聞き逃してしまいそうなほど小さなものでした。
「自分の部屋を出るタイミングがわからず、ドアの向こう側でしばらくお話を聞いていました。そこで気になったことがあるのですが、もし障害年金がもらえたとすると、いくらくらいになるのでしょうか?」
話をしている間、長女の息からは胃液の酸っぱいにおいがしていました。そこからは、食事も満足に取れていないことが分かります。さぞかし体調も優れないことでしょう。筆者は長女の反応を見ながら、金額の説明をすることにしました。
「初診日が20歳前なので、障害基礎年金の請求をすることになります。障害基礎年金には1級と2級があります。仮に2級に該当すれば、月額換算で約6万5000円がもらえます。さらに障害年金活者支援給付金が月額約5000円上乗せされます。つまり月額で約7万円の収入になります」
「月7万円は大きいですね。でも……」
「障害年金受給が近所にばれてしまうのではないか」と心配する長女
長女は不安を口にしました。
「私は働いていないのに、そのようなお金をもらっても良いものかどうか。また、障害年金をもらっていることが近所にばれてしまい、何か言われてしまうのではないか。それがすごく心配です……」
筆者は長女の不安を払拭するように、あえて毅然とした態度で告げました。
「障害年金は国で定められた制度です。ご病気などにより、日常生活や仕事が制限されてしまった方を支えるものなので、受給することにうしろめたさを感じることはありません。また、受給していることはご本人やご家族から言わない限り、ご近所の方に知られてしまうこともありません。仮に知られてしまっても、別に悪いことをしているわけではありませんから、あまり気にする必要はないと思います」
「そうなんですね。ちょっと安心しました。障害年金の請求をしようかどうか迷っていましたが、請求してみようと思います。お手伝いいただけますか?」
「はい、構いません。大丈夫です。ですが、その前に確認しておきたいことがあります」
長女は、何でしょう、といったそぶりを見せました。
「先ほどお母様に申し上げましたが、添付書類のひとつに病歴・就労状況等申立書というものがあります。その書類に、体調を崩したときから現在までの状況をできるだけ詳しく記入していきます。もちろん記入は私がしますが、その前にご本人やご家族から聞き取りをする必要があります。つまり、ご本人には過去のつらい出来事に向き合っていただくことになってしまう、ということです」
長女は静かに耳を傾けています。筆者は続けました。
「つらい過去を振り返ることで、時には体調を崩してしまうこともあると思います。なので、振り返りは一人でせずに、お母様と一緒にするようにしてください。メモはお母様に取ってもらうと良いでしょう。振り返りに時間がかかっても構いません。ご本人のペースで大丈夫です」
長女はしばらく黙っていましたが、やがて小さな声で答えました。
「分かりました。振り返りには母にも手伝ってもらおうと思います」
母親を見ると、もちろんというように小さくうなずきました。
「では、委任状にご記入をお願いします」
筆者は長女に数枚の委任状とペンを渡しました。ペンを受け取った長女はさっそく委任状を書こうとしましたが、その手は小さく震えています。これでは字も満足に書けそうもありません。それを見た母親は、心配そうな表情で長女に語りかけました。
「あまり無理しなくていいのよ。何だったらお母さんが代わりに書こうか?」
長女は手を前に出して母親を静止しました。
「大丈夫。自分で書く。これくらいはやらせて」
そう答えた長女の目には、覚悟の灯がともっているように感じられました。
母親はすがるように筆者を見やりましたが、筆者は長女の意見に同意しました。
「ご長女がやれそうなことは、できるだけやってもらいましょう。書くのに時間がかかっても大丈夫です。私は待ちますよ」
それを聞いた母親は観念したようで、何も言いませんでした。
長女は時々手を休めたりしながら、長い時間をかけて数枚の委任状を書き上げましました。
委任状を受け取った筆者は、長女と母親に言いました。
「では、これから請求に向けての行動を起こしていきたいと思います。時間と手間がかかって大変ですが、一緒に乗り越えていきましょう」
「はい。お願いします」
わたしたち3人は互いに顔を見合わせ、決意を新たにしました。