1950~60年代に突如目立ち始めた「小児期の多動」

今日のADHDに相当するとされる診断が登場したのは、1957年のことである。児童精神科医のモーリス・ラウファーとエリック・デンフォッフが「多動・衝動性障害」という診断概念を提案したのだ。

この診断概念が、わずか5年後、「小児期の多動反応」として、正式の診断基準に採用されると、「多動」は、たちまち市民権を得る。というのも、ちょうどこの頃、学校では、落ち着きがなく、授業に集中できない子どもたちが問題視されるようになっていたからだ。

つまり、今日のADHDらしき状態は、1950年代後半から60年代にかけて、アメリカにおいて突如目立つようになったということになる。

この頃、何が起きていたのか。

ADHDの薬をもらうことが一般的になった

一つは、戦後のベビーブームで、教室が子どもたちであふれかえっていたという状況があった。

また、先述のマシュー・スミスによれば、アメリカの学校では、もう一つ異変が起きていたという。それは、ガガーリン少佐の「地球は青かった」と関係していた。史上初めての有人宇宙飛行にソ連が成功したことは、アメリカに強い衝撃を与え、科学教育にもっと力を注ぐべきだという機運が生まれた。それは国の威信をかけた強い圧力となって、教師や生徒たちにのしかかるようになったのだ。

算数や科学が重視されるようになり、授業についていくことができずによそ見ばかりしている子どもたちは、もはや大目にみられることはなく、医者に行って、薬をもらうようにと助言を受けるようになった。

折しも、1960年には、アンフェタミンよりも作用がマイルドで、依存しにくいとされるリタリン(一般名メチルフェニデート)が小児の多動症治療薬として発売された。リタリンは、その後、指数関数的に売り上げを伸ばしていくことになる。

とはいえ、それから27年後の1987年において、リタリンを服用としているのは、小児の0.6%に過ぎなかった。ところが、その10年後の1997年には、2.7%と4倍以上に膨らみ、2011年になると、ADHD薬を投与されている子の割合はおよそ6%に、ADHDだと診断された子の割合は約10%にも達している。

この事実を前に、改めて疑問に思う人は少なくないだろう。ADHDは、遺伝性の強い神経発達障害ではなかったのか。同じような先天的要因が強い神経発達障害である知的障害や学習障害では、この何十年か、有病率はほとんど変化していない。この違いは、何を意味するのか。本当のところ、一体何が起きているのか。