「北浜の天才相場師」と呼ばれた料亭の女将

尾上縫は、バブル絶頂期の1980年代末、「北浜の天才相場師」と呼ばれた料亭の女将です。彼女は数千億円を投機的に運用しながら、占いと神のお告げによって株式相場の上昇などを見事に言い当てたことから、多くの証券マンや銀行員が彼女のもとに群がりました。興銀は1987年に10億円分の割引金融債「ワリコー」を購入してもらったのを発端に融資を膨らませ、1989年には融資残高は586億円にまで上りました。尾上に不動産投資もすすめ、尾上の資産管理を行う株式会社も設立されました。

しかし、バブル景気の陰りとともに尾上の資産運用は悪化しました。このため尾上は東洋信用金庫につくらせた架空の預金証書や興銀のワリコーを担保にさまざまな金融機関から融資を引き出し、最終的には12の金融機関から3420億円を詐取したのです。興銀がバックについているなら安心、という認識が被害を広げました。のちに尾上が破産宣告を受けた際の金融機関からの借入金総額は、のべ2兆7736億円。負債総額は4300億円という驚くべきものでした。

産業金融の雄とまで言われた日本興業銀行が、このような胡散臭い不動産、財テク投資を行う人物に嵌ってしまった背景には、すでに企業の資金需要が低下していたことがあります。融資先の開拓に苦慮していた興銀の行員は、大口融資先という目の前の誘惑に抗しきれなかったのでしょう。

時代の変化に「徹底的に鈍感」になった銀行

実は、預貸ビジネスの限界は、私が入社した1970年代後半にはすでに見え始めていました。

例えば戦後、基幹産業向け長期資金供給のために創設された信託銀行の主力商品である貸付信託の場合、住友信託銀行を例に取ると高度成長期である1970年当時には94.5%が貸付信託勘定から直接貸し出しされていましたが、徐々に減少し始め1990年にはその比率は54.2%にまで低下しています。

その当時ですらそのような状況だったのですから、このビジネスモデルに限界があることは明らかでした。

ところが、銀行は大きく改革方向に舵を切ることができず、ジリジリと地盤沈下を続けてきたのです。

さらに、人口減少が進むとともに急速なIT化、AI化の波が訪れ、社会の変化が加速し、銀行の危機が一気に顕在化した……。

これが、銀行がここまで弱体化した本当の理由だと思います。

こうなる前に銀行は変わるべきでした。気づいていたのですから、もっと早くに手を打つべきでした。

時代は常に移り変わります。照る日もあれば曇る日もあります。確かに資金需要の低下や産業構造の変化など個々の問題は逆風です。しかし、常に順風が吹き続けるようなそんな平穏な時代はありません。市場環境は常に移り変わる、これは当然のことです。

なのに、銀行は時代の変化に徹底的に鈍感になってしまった。