目指すべきは、筋トレに励む普通の日々

▼筋トレと談志の共通項2 :「到達点で満足するな」と言う
「身体へのむちゃぶり」は、師匠・談志の教えそのものだった

そんな感じで談志のむちゃぶりに応じていた私は、9年半もの長い時間をかけて、二つ目というランクに昇進しました。そのお披露目の翌日でした。師匠宅にあいさつに行くと、二つ目としては壮大に催したパーティをほめてくれるのかと思いきや、「二、三年で真打ちになれ」とさらにハッパをかけてきたのです。

そして、手ぶりを交えて「いいか、(てっぺんを指して)ここに来るのを目標にするなよ。(ちまちまと積み上げるような手ぶりで)こういう日々を目標にしてみろ。(再びてっぺんを指して)ここに来るのを目標にしちまうと、ここに来た時点で人格が瓦解(がかい)する。目標を失った人間ほど切ないものはない。◯◯(実在する落語家の名前)みたいになるなよ」と言うのです。

「到達点で満足するな」とは筋トレの眼目(がんもく)でもあります。筋肉は負荷に応じて成長するので、ベンチプレス100キロを目標にトレーニングを開始して、いざそれが達成されたら、次は110キロを目標にしていかないとなりません。「100キロのベンチプレスを上げられる筋肉」が身についただけで満足していたら、その先には現状維持か筋量低下しかありません。もっといえば、ベンチプレスに終わりはないですから、筋トレに励む日々そのものを目標でなければならないのです。

やるべきことは、いつだってシンプル

▼筋トレと談志の共通項3:「公平」

入門時に学歴やら出自が問われないのがこの世界の公平さでもあります。名門の出でなくても、話芸のスキルとキャラクターとそれらを差配する頭脳があれば、誰もが世に出るチャンスがあるという意味では、快哉(かいさい)を叫びたいほどです。立川流の昇進もいま振り返っても厳しいものでした。しかし談志は「お前がどんなに俺が嫌いな奴だったとしても、俺の基準さえ満たせば、俺は二つ目、そして真打ちにもする覚悟だ」と言い切っていました。「俺がお前にしてやる最高の親切は情けをかけないことだ」とこれまたよく言われたセリフとあわせて読むと、より談志の公平さはより浮かび上がってきます。

翻って筋トレ。果たしてこれほど公平なスポーツがあるでしょうか。球技をやる際に問われる運動神経やら持って生まれたセンスなどは基本問われません。ただ目の前のダンベルやバーベルを上げるかどうかというだけのものです。ゆえに身体の小さいひとでも不利にはなりません。また飛んだり跳ねたりする必要もありませんので、ご高齢の方でも「やる気」があれば取り組むことができます。