今回も完成車検査をめぐる不正に続き、コーポレートガバナンス(企業統治)の不全が露呈した形となった。稀代のカリスマ経営者が暴走し、これを食い止める機能が働かなかったといえる。なぜゴーン氏は会社や社会の利益よりも、自分という個人の利益を優先するようになってしまったのだろうか。
99年3月、巨額の負債を抱え経営危機に直面する日産に、仏ルノーが約6430億におよぶ資本注入を行う。これに伴い、日産に乗り込んだのがルノー上級副社長だったゴーン氏だった。
4月に入ると、6月の株主総会までの間、役員から現場まで数百人もの日産関係者と面談を重ねた。「日産の強みと弱みを教えてくれ。君は何をもって日産に貢献しているのか。再建するにはどうすればいいか」、と。同年10月には、村山工場閉鎖などが柱の再建計画「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表した。
初めて私がゴーン氏に取材したのは同年12月だった。当時は東京・東銀座にあった日産自動車の本社新館15階。巨大企業の再生に挑む男が発するエネルギーは、ひたすら強烈だった。
「経営とは科学だけではなく、実は芸術なんだ。いくつもの相反する矛盾を抱えながら、最終的には結果を出していく。経営には芸術的センスが必要」「誰も責任をとらない、年をとれば自然と出世する。日産の社員はこうした過去から、もう離れてほしい」「1年で黒字化というコミットメント(公約)を果たせなければ、私は辞める」
翌2000年4月からNRPは実行に移され、計画を1年前倒しの2年という短期間で日産はV字回復を果たす。2兆1000億円あった有利子負債を約4年で完済し、黒字化に成功する。しかし次第にその姿は豹変していく。潮目が変わったのは05年にルノー会長兼CEOに就き、日産トップと兼務したときだろう。権力の集中化と政権の長期化は、ガバナンスの網を潜り抜けることになる。
V字回復の後、05年から3年連続して経営計画は未達に終わる。しかし、ゴーン氏はその経営責任をとろうとはしなかったし、十分な説明もなかった。看板だったコミットメント経営は、実質的に破綻していったといえる。