女の子のADHDが見過ごされやすかった理由
ところが、こうした心配事を女友達に話してもあまりピンときてもらえませんでした。「そのうち慣れるんじゃないかな」とか、「完璧にできなくていいのよ」などと慰めてはくれるのですが、ミサさんと同じような危機感を持っている人はおらず、共感を得ることはできませんでした。
ミサさんのような経緯を辿っていると、普通の人に比べて漠然と生きづらいと感じる人は多いと思うのですが、だからといって精神科を受診しようというところまでに思い至るかというと、決してそんなことはありません。
最近、増えているのは、子どもの発達相談に来た親が、子どもの診断を通じて、自分もADHDかもしれないと気づく現象です。
今の子育て世代の親が子どものころは、ADHDはまだ社会的に広く認知されていませんでした。多少は知られていたとしても、そういう子どもは授業中に教室の内外を歩きまわって、先生の言うことを聞かないなど、軽めの問題行動と見なされていた時代です。ミサさんの幼少期のように、表立って行動に現れない多動は、外見では判別できないために問題視されてきませんでした。そのため、女の子のADHDは見逃されやすい傾向にあったのではないかと言われています。
私のところに相談に来られた女性の成人ADHDの人は、こうおっしゃっていました。
子どもが生まれるまでは、世間から見れば何とかなっていたんです。でも、もう手に負えなくなりました。こんなの初めて。
障害がない人にはなかなか理解しづらいことかもしれませんが、ADHDの人が抱えている様々な生活上の困難というものは、本人のちょっとした気づきや精神力だけで埋められるものではありません。症状を放っておいたら「できないこと」を、社会生活に支障をきたさないように工夫して過ごしてきたということは、物事の理解力やアイデア、行動力など、別の高い能力を発揮してカバーしてきたということを意味します。
育児はADHDではない人にとっても大変なことです。ただでさえ、自分の生活をまわしていくことにアップアップしているところに、子育てというさらに大きなミッションが加わるわけですから、「手に負えない」という言葉が出ても不思議ではありません。