李承晩は恐怖政治によって、国を統率しました。朝鮮戦争前後の混乱と失政の責任を李承晩個人に押し付けることは簡単なことですが、李承晩の恐怖政治がなければ、当時の韓国は空中分解し、あっさりと北朝鮮に喰(く)われていたかもしれません。実際、李承晩が退陣した後の韓国の社会混乱はひどいものでした。理想主義の学生や左傾化した労働者などが、いわば国を滅ぼしかけていたのです。

朴正熙のクーデターで再び独裁体制に

こうした危機的な状況に際し、事態収拾に動いたのが軍部でした。朴正熙(パク・チョンヒ)少将や金鍾泌(キム・ジョンピル)中佐など陸軍の若い士官が「5・16軍事クーデター」を起こします。1961年5月16日午前3時から、クーデターは決行され、わずか2時間で首都は制圧されました。これ程スムーズにクーデターが成功した大きな理由として、兵士たちが腐敗していた軍上層部の命令ではなく、朴正熙少将の命令に従ったことが挙げられます。

朴正煕はクーデター後、直ちに中央情報部(略称KCIA、初代部長は金鍾泌)を組織し、この諜報(ちょうほう)機関に国民を監視させ、不穏分子を徹底的に取り締まりました。KCIAは学生に対しても容赦ない取り締まりを行い、拷問しました。KCIAににらまれれば前途はなかったため、学生たちは萎縮しました。「板門店で会おう」の合言葉で知られた学生運動も、ぴたりと鎮まりました。KCIAは朴正煕の独裁を支える中枢機関であり、国民からは、恐怖政治の執行機関として恐れられました。

アメリカ(ケネディ政権)は当初、朴正煕らの軍事クーデターを非難していましたが、すぐに手のひらを返し、支持を表明します。その後、朴正煕は自身の政党である民主共和党を組織し、自分の息のかかった者を国会に送り込んでいきます。