1955年、横浜市立大学教授だった森泰吉郎は港区虎ノ門に森不動産を設立。もともと森家は港区で米屋を経営していたという。泰吉郎は大学を退官後、本格的に賃貸ビル建設を始めた。
森ビルを実質的に成長させたのは、泰吉郎の息子、森稔である。59年、稔は東京大学を卒業後、森ビルに入った。稔が考えたのは、自社で土地のすべてを所有せず、複数の土地所有者に声をかけて表通りと裏通りの地権者と共同でビルを建てるというものだった。
このビルの名前には数字が割り振られ、通称「ナンバービル」と呼ばれた。そして、森ビルは86年に新たな道に踏み出した。赤坂に「アークヒルズ」を建設したのだ。

【弘兼】先代の森稔さんとは付き合いがあり、対談したこともあります。もともと、小説家志望で、思ったものが書けなかった。そこで父親から家業を手伝えと言われて不動産業に入ったと聞きました。ナンバービルは、複数の地権者による共同ビル建築のビジネスモデルの先駆けでした。そして、赤坂アークヒルズを嚆矢とする「ヒルズ」では、都市の中に「ヴァーティカル・ガーデンシティ(立体緑園都市)」という理念に基づく“街”をつくるという、今までになかったコンセプトを打ち出した。

【辻】ええ。単純に土地を買って建物を建てて、売って、というのではなく、都市とは何か、都市はどうあるべきか、この東京に何が必要なのかということを考えて街づくりをしてきた会社だと言えます。

現在までの主な森ビルの大型プロジェクト

400人の地権者とどう向き合うべきか

【弘兼】辻さんの経歴を見ると、最終学歴が横浜国立大学大学院工学研究科となっています。

【辻】都市計画を勉強していました。横浜市の大学でしたので、市から委託を受けるようなこともありました。就職先には役所も考えていたのですが、役所は絵を描くだけ。実際にやるのは民間企業。僕が森ビルに会社訪問したときは、建設中のアークヒルズの形が見えてきていた頃でした。それを見て「開発がしたい」と思って森ビルに入ろうと決めました。

【弘兼】入社後、その後のヒルズシリーズの象徴ともなる六本木ヒルズに関わるようになりました。

【辻】入社15年目に六本木ヒルズ開発を担当する部署に配属されました。