本田宗一郎と藤沢武夫の関係は、リーダーと補佐役の関係として語られることが多いが、あまりしっくりとこない。本田が技術一筋の人であり、一般的な意味での経営は、ほぼ藤沢が引き受けていたことを考えれば、むしろ藤沢こそリーダーと見るのが、「常識的」というものだろう。
しかし、今なお補佐役というイメージを残し続けていることこそ、実は藤沢にとっては勲章なのではないかと思う。なぜなら、彼の経営者人生は「地位に幻惑される人間心理」というべきものとの闘いであり、補佐役という称号は、その闘いに彼が真摯に向き合ったことの証しにほかならないからだ。
たとえば、研究所の独立という事跡がある。まだホンダが大企業でもなかった1960年、藤沢は周囲を粘り強く説き伏せ、本田技術研究所を分離・独立させている。
藤沢は語る。「出世はだれだってしたいから、技術のほうへ向けるべき頭の大部分を、不得手なほうに向ける。すると、不得手であるべきことが不得手だと思わなくなるのが人情なんですね」(『松明は自分の手で』より)。
世界企業への飛躍に必要である高度な技術集団をつくるには、管理職という地位が生み出す「幻惑」から技術者を解放し、「不得手」にはまらないようにしなければならない。その問題意識が生み出したのが研究所独立であった。後年、それはホンダ躍進の原動力となる。
あるいは、名高い「大部屋役員室」にしてもそうだ。役員ともなれば、個室が与えられ、秘書が付き、大勢の部下の上に君臨できる。そういう「幻惑」を掃討し、彼らを真に役員がやるべき仕事(藤沢の言を借りれば「何もない空の中から、どうあるべきかを探す」こと)に集中させるために、彼は周囲の反対を押し切り、強引にこの制度を導入するのである。
「ホンダは創造的で自由闊達な企業だ」としばしば言われる。それは、本田宗一郎の奔放なイメージと相まってあたかも自然に生まれた「組織のDNA」であるかのように、世上考えられている。
しかし、藤沢が経営を預かっていた時代でさえすでに巨大化しつつあった組織が、何の努力もせずに硬直化を免れたはずがない。絶え間ない工夫の積み上げがあって、はじめてそれは実現できたはずなのである。
それこそが、藤沢の最大の功績であった。
創造的であり続けられる企業だけが、最終的に生き残れるのだ。そう信じて「地位の幻惑」と対峙し、人の心理を創造へと向かわせるべく施策を講じた藤沢のEQ(感情知能)がなければ、創業時のDNAなど、とっくの昔に霧消していたに違いないのである。
藤沢は、企業という場所にあって、組織や地位の魔性にとり殺されないことを、自己の美学とした男である。「白鶴高く翔びて群を追わず」。彼が愛したその言葉は、彼の生き方のコアであり、またホンダを世界企業へと育て上げた、経営の真髄でもあった。