昨年はあと一歩のところでリーグ優勝を逃したオリックス・バファローズ。今回はその球団本部長の瀬戸山隆三氏にお話を伺った。

瀬戸山氏は、福岡ダイエーホークスや千葉ロッテマリーンズ、そして現在のオリックス・バファローズにおいて球団社長や球団代表・本部長を歴任してきた人物。パ・リーグの一連の球団改革の立役者の一人といってよい。瀬戸山氏は、業界の枠にとらわれずにテーマパークなどの異業種にモデルを求めることで、一連の改革を進めてきたと語る。

89年春、福岡ダイエーホークスは、平和台野球場を本拠に興行を開始した。ダイエー社員だった瀬戸山氏は、これに伴って新球団の総務課長となった。

福岡に移転してきた新球団に対して、地元は歓迎一色ではなかった。その昔、平和台野球場を本拠地としていたのは西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ、埼玉への移転直前はクラウンライターライオンズ)である。往時の西鉄ライオンズは、福岡ダイエーホークスの前身である南海ホークスと宿敵関係にあった。そのホークスが福岡に乗り込んでくる。親会社のダイエーと地元財界の関係も、円満とはいえなかった。

向かい風の中での始動だった。それでも各種のイベントやプロモーションに工夫を凝らした結果、福岡ダイエーホークスは1年目から、当時のプロ野球球団としては高水準の観客動員数を達成する。

しかし、決算は赤字だった。プロ野球球団の運営には、それなりの経費が必要となる。当時のホークスはスター選手も少なく、選手の年俸は他球団より低かった。それでもチケット収入だけでは大きな赤字となる。

ここで福岡ダイエーホークスは、親会社に依存する道を選ばなかった。「新たな収入の柱を複数立ち上げていくしかない」――この方針が、その後のマーケティングを導くのである。

福岡ダイエーホークスは、さらに様々な新機軸に挑んでいく。なかでも重要な収入源に育っていったのが、ファンクラブの事業化、球場内の飲食サービスの充実、グッズ販売の活性化、そして放映権料だった。

興味深いのは、放映権をめぐる動きである。東京や大阪のような大都市圏では、注目度に劣るパ・リーグ球団がテレビに大きく取り上げられることは期待できない。だが地域の放送局にとっては、地元のプロ球団は重要コンテンツである。福岡ダイエーホークスの選手が出演するミニ番組がレギュラー放送されるようになった。そこにスポンサーがつくと、すかさず球場内にも看板広告を出してもらうようにと球団の営業が動いた。地域での放映権料は、全国中継のような大きな金額とはいかない。しかし、このようにスポンサービジネスとかけ合わせれば、着実な収益の柱となる。