「いい加減な連中」だから、「どうせ嘘に決まっている」
名誉毀損の対マスコミ損害賠償訴訟は、2001年に状況が一変した。本来、報道内容に公益性が高く一定の立証もできていれば賠償金の認容額は低くすべきだし、逆にひどい名誉毀損でまともな立証もできていなければ高くなる。かつては「認容額100万円以下」が一般的だった。
それがいきなり「500万円以上」に跳ね上がったのだ(図1参照)。
なぜそうなったのかを述べる前に、名誉毀損裁判において被告、つまりマスコミ側の抗弁を認めない傾向が強まっている現状に触れておく。
有名週刊誌の記事を大手新聞社が名誉毀損で訴えた裁判を例に取ると、実におかしな点が2つあった。
(編集部注:「週刊文春」12年7月19日号「スクープ撮! 日経新聞喜多恒雄社長と美人デスクのただならぬ関係」について、日本経済新聞社が名誉を毀損されたとして文藝春秋側に約1億7000万円の損害賠償を求めた訴訟。東京地裁は昨年3月、文春側に計1210万円の賠償金支払いと文春・日経の両方への謝罪広告掲載を命じた。文春側は即日控訴。東京高裁でも判決が覆らず、文春側の上告を最高裁が受理)
1つは、原告のいう「社長の知人」を特定しないまま審理が進められたこと。「新聞社の社長が借りているマンションに同紙の女性デスクが頻繁に宿泊している。社内では、彼女が社長の愛人だから人事にも情実が絡んでいるのではないか、との疑いが持たれている」のが記事の趣旨だった。新聞社側は陳述書で、「女性デスクが宿泊した部屋は、同マンションにある別の知人宅である」としたが、ただ知人というだけで特定しないのだ。これでは女性デスクが泊まった部屋の住人がどこの誰かがわからず、当然尋問もできない。
もう1つは、原告である社長と女性デスクに対する「本人尋問」が認められなかったことだ。これでは、いくら「真実性の抗弁」といっても、被告には争いようがない。
このように、原告側の陳述書だけで裁判をされては「手続的正義」が失われる。近代の民事訴訟法や刑事訴訟法は、手続保障、手続的正義がその根幹にある。それを裁判所が蔑ろにしている。これは非常に恐ろしいことだ。なぜならそれは名誉毀損の問題だけではなく、裁判全体の信用性の問題にもなるからだ。これは、刑事事件で冤罪が続出することとも関係している。まともな手続保障もないまま「自白」するまでずっと被疑者・被告人を勾留し続けることは、冤罪を生む土壌となりかねない。
名誉毀損の訴訟における手続的正義、人権、表現の自由、知る権利に対する裁判官の感覚が鈍っている。刑事事件はその典型で、被疑者・被告人を「やつら」「あいつら」と呼び、「あいつら」は「嘘つき」だから「やってるに決まっている」として冤罪になる。同様に週刊誌も「いい加減な連中」で「嘘つき」だから「どうせ嘘に決まっている」と判断され、こうした偏った判決が出る。
裁判官がまず最初に白紙・中立で臨まなければ、脛に傷を持つ人は争いようがない。証拠を見なければわからないが、この裁判は少なくとも手続き的には明らかにおかしい。