裁判所を統制しようとした自民党政権

日本の裁判がおかしくなったのは、構造的な要因が大きい。

今の裁判所では、事務総局によるソフトで見えにくい管理・統制が行われている。前述の名誉毀損の件でいえば、東京のエリート裁判官の一部を集め、司法研修所の研究会という形で発表した。だから研修所の名前以外は表に出てこず、しかも個々の裁判官が任意で行った形を取っている。が、先に述べた組織の構成上、事務総局が裏で動いていることはまず間違いあるまい。

人事統制も非常に巧妙だ。例えば論文や判決で不都合なことを書いた人への締めつけの場合、大胆な判断を下した若い判事補はすぐさまひどく遠方の支部ばかり転々とさせられるが、相応のキャリアを積んだ裁判官だと、ある程度時間の間隔を空けてから飛ばされる。

正義を拠り所とする裁判所は、正義の“外形”には非常にこだわる一方、こうした内部の統制を欲する。それゆえ内と外、裏と表を使い分ける極端な二重システムとなるのだ。

戦後、新憲法の下で裁判官たちが次第にリベラル化し、公務員の労働争議の行為を段々と刑罰から解放する方向に向かった。そこに非常に危機意識を持ったのが自民党だ。しかし、裁判所には「裁判官の独立」の原則がある。裁判官個人に対して、政治・行政が正面から何事かを命令するような真似は絶対にできない。

そこで自民党は1969年、石田和かず外と氏という国粋保守の人物を最高裁判所長官にねじ込む形で、裁判所を統制しようとした(第二次佐藤栄作内閣当時)。

石田体制下の人事局長は矢口洪一氏。石田・矢口体制が左派系裁判官の大規模転向工作・弾圧として知られる「ブルーパージ」(法律家各層の研究団体「青年法律家協会=青法協」への弾圧)を断行し、最高裁でも下級審でも強かったリベラル派を日干しにした(参考:山本祐司著『最高裁物語』講談社プラスアルファ文庫)。これが裁判所に大変な傷を残し、今も尾を引いている。権力を批判すると大変なことになるという恐れが染み付いてしまったのだ。

最高裁長官と事務総局によるこうした思想統制工作や大規模な情実人事は、その後矢口長官時代の80年代末まで推し進められ、事務総局系の裁判官ばかり長官に就かせるなど、強力な支配統制システムが完成した。

そして00年代以降、今度は刑事系が再び覇権を握ろうと動き始める。竹崎博允(ひろのぶ)氏が長官に就任すると、刑事系の大規模な情実人事を始め、下級審の裁判長や判事補の人事、新任判事補の選別にまで口を出すようになった。