失われた「書く」ことの緊張

頭脳の働きということを考えると、キーボードとペンとの間には、大きな溝が横たわっているのかもしれない。メールやケータイ小説の文章、あるいはSNSの短文を見ていると、デジタルの文章と紙に書く文章では、話し言葉と書き言葉ほどの違いがある。

これは『情報編集の技術』で紹介した話なので、10年以上前のことになるが、文字コードの専門家の友人、小林龍生君が「キーボードは、書くというより話す感覚に近いのではないか」と言ったことがある。先輩の編集者が、脳出血のため言語機能に障害が起きて話せなくなったとき、紙に文書を書くことはできるが、パソコンのキーボードは打てなくなった。だからキーボードは、書くインターフェースというよりも、話すインターフェースに近いのではないか、と。

かつて「書く」ことは学者とか作家・評論家、新聞記者といった文筆を業とする人以外にはあまり縁のない行為だった。だから書くのは苦手という人が多かった。その書くことの敷居の高さを解消したのがワープロ(パソコン)だった。

ワープロが普及し始めたころ、「ワープロは文体を変えるか」といった雑誌の特集がよくあったけれど、ワープロで文章が楽にかけるようになったのはたしかである。いざ原稿用紙に向かっても、最初の一行に苦吟して、ああでもないこうでもない、とりあえず新聞でも読もうか、その前に伸びている足の爪をつんでおこう、などとなかなかスタートが切れなかったけれど、ワープロなら思いついた文章をとにかく書きつけて、それらの断片を後で編集してまとまった文章にすることができる。この便利さが一方で、書く行為の緊張を薄れさせたとも言える。

かつて社会学者の清水幾太郎は書く行為について、こう述べた。「読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことである。書こうと身構えたとき、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことができる。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。対象と精神とがそれぞれの深いところで触れ合う。書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある」(清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書)。

書く行為はいまや万人のものになった。ケータイ小説はまさにメールの文体でブームになったが、それはまさに話し言葉だった。コピペはその延長線上に出現したと言っていいかもしれない。

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