レポートに氾濫するコピペ

第8回http://president.jp/articles/-/13416でSTAP細胞をめぐる画像の切り張りについて取り上げたけれど、小保方晴子研究員の論文には、早稲田大学に提出した博士論文も含め、随所に他の論文からのコピー&ペーストもあった。

学生が課題に関連する記事をオンラインで検索して、それらの文章をいくつかコピー、貼り付けて、レポートとして提出するコピペは、残念ながら、もはや珍しくもなくなった。私自身、都内の大学で何度もその例に出くわしたが、レポートの前半部分は「ですます」調、後半は「である」調と文体が変わったり、途中でフォント(書体)が変化したりするのはざらで、大胆なものでは、述語が「と本書は考える」となっていたり、主語が「わが社」だったりした。レポートの体裁を整えるために、推敲することさえしない。分量さえ満たしていればいいという考えらしく、教師がレポートを読むと想定していないようなものまであった(実際、きちんと読まないで分量さえ足りていれば良しとする教師もいるらしい)。

模倣そのものは昔からあり、印刷術が発達する前の模写(筆写)はともかく、美しい文章を書くために名文を何度も写し取ったりすることは、推奨されこそされ、けっしてけしからぬことでもない(私たちの発想そのものからして、ほとんど先人の模倣と言えば模倣である)。

模倣とコピペはどこが違うのだろうか。紙に文字を写す行為には、指やペン先の動きばかりでなく、自然に脳の働きも加味される。すばらしい表現を真似るときでも、自分の手で書くぶんには、少しは自己流にアレンジするものである。コピペした文章でも自分流に書き直せば、そこにはいくぶんかの独自性が出るはずで、実際、そういうふうに"工夫"している例もあるが、多くの場合、元の原稿をそのまま使ったり、極端な場合には、つぎはぎしたことが明々白々な文章を平気で提出したりする。

まるでパチンコ台の前にぼんやり坐っているように、頭の働きがすっかりお留守になりがちだということこそ、コピペの魔力と言っていい。コピペは学生のレポートだけにとどまらないデジタルの陥穽である。というわけで、サイバーリテラシー・プリンシプル(25)は<コピペは頭を素通りする>である。