同じ噺でも演者によって全く違うものに。聴き比べの妙も楽しめる
それにしても落語って本当に不思議な芸能だと思います。特にそのことを痛感したのは、志ん朝さんの高座を見ていたとき。目の前には着物を着た初老の男の人が座ってるだけなのに、それが女になったり男になったり、隠居になったり子供になったり、背景に広がるのも長屋だったり遊郭だったり、本当にいろんなものが見えてくる。演者が動かしているのは上半身だけで、使うのもせいぜい手ぬぐいと扇子。ほとんど何もないところであれだけの世界をつくっている。
すべてを極限まで省略した、洗練の極み。それをみんなが同じように想像しているなんて驚異的だと思いませんか?
客の想像力を信頼してるわけですけど、その客だって特別に学があるわけでもない庶民だったわけだし、これだけ高度な芸を楽しみ、育ててきた昔の庶民って本当に素晴らしいなと。改めて日本人ってすごいって感心しちゃいます。
同じ噺でも演者の工夫や演出によって、全然違う噺になることも落語の魅力。最後のサゲが変わるときもあるし、人物像が変わってくることもある。人物に命をふきこむわけだから、当然噺家の持ってる何かが出ちゃうんですよ。
たとえば「寝床」という噺。大店(おおだな)の旦那がヘタクソな義太夫(ぎだゆう)を披露するので、長屋の衆があれこれ口実をつくって逃げる物語なんです。文楽さんは旦那の描写がすごくうまい。義太夫の話になると人格が豹変する心理を、実に克明に描いていく。その代わり、長屋の様子はそんなに力を入れていない。ところが志ん生さんの「寝床」は、旦那よりも長屋の困惑ぶりに重点が置かれる。大胆にデフォルメした描写で笑わせるんですよね。
人間のバカバカしさと世の中のおかしみ――。
落語こそ「最終娯楽」なり
落語の中には今の時代だったら通じない表現や名詞もあるのですが、昔の匂いを出したくてそのままにしておく人もいるし、大胆に変える人もいる。光の当て方、力の入れる部分が演者によって全然違う。だから同じ噺なのに何べん聴いても面白いんですよね。
ただ面白いといっても、落語イコール「笑い」ということではないんです。テレビではドカーンとした笑いがないとチャンネルを替えられるもんだから、ゲラゲラ笑えるものばかり求めがちだけど、それを落語に求めたらガッカリするでしょうね。
落語の中にあるのは、人間や世の中自体のおかしみと言っていいかもしれない。私は落語を聴いて、ゲラゲラ笑うことは少ないんです。だけど頭の中ではすごく笑っている。大体、落語はゲラゲラ笑うと、演者もやりにくい感じがするし。ゲラゲラ笑いが起きなくても客が噺に引き込まれているかどうかは空気でわかるものです。
落語は心安らぐ世界へ誘ってくれます。芝居や映画を見たかのような気分にもさせてくれる、その心地よさがなんともいえない。私の場合、どこかへ誘い込まれたい気持ちが強くて、江戸や明治の町が頭の中にエスケープする場所としてあるんです。その幻の町が落語にあるから、いつでも逃げ込めるんですよね。それって、たとえば時代小説好きな人も同じ気持ちなんじゃないですか?
時代小説を読む感覚で、人間のバカバカしさに光を当てる世界として落語を聴くと、きっと楽しいですよ。特に落語の噺では女はみんな利口で、男はみんなバカだから、それが受け入れられる人にはぜひ聴いてほしいな。
私は20年以上、落語を聴き続けていますが、今も聴くたびに、新しく感じることがある。歳を重ねるごとに発見があるんです。しかも寝そべりながらも聴くことができる。こんな何の努力もなく楽しめるもの、ほかにないですよ。私は落語こそ“最終娯楽”じゃないかと思っています。