仮説をつきつめて直面した厳しい現実

慶應義塾大学医学部を卒業した1991年、同大学大学院に進み「網膜に特異的な遺伝子を見つける」というテーマで研究を続けるため、分子生物学教室に入ります。同時に、眼科臨床医として網膜色素変性症の外来も担当していました。網膜色素変性症というのは、一度かかったら治らない病気で、治療薬が存在しない。いずれ失明していくというたくさんの患者さんの姿を目の当たりにしてきました。もちろん、教科書を読んで理解はしていたけれども、実際にその患者さんを前にすると、絶対になんとかしなければならないと強く思ったものです。

臨床医をやりながら研究に没頭していた私は、病気を治すには、その病気が起こる原因を解明できれば治療法に直結した糸口になるのではないかと仮説を立てていました。当時は、どうして網膜色素変性症が起こるのかがわかっていない時代で、遺伝的な病気と考えられていました。その遺伝的な原因を自分で探そうと、何年も研究を続けていたわけです。その過程で、緑内障原因遺伝子のひとつ「ミオシリン」を発見した。この功績で、後にワシントン大学へ留学することになります。緑内障は網膜にある視神経が萎縮して失明してしまう恐れのある病気で、日本では失明の主要原因といわれます。

しかし、患者数が多い疾患の原因遺伝子を突き止めることが、たちどころにその遺伝子を治療するとか新しい治療法が出来るというわけではありません。ここでいったん研究から離れ、眼科臨床に専念することにしました。自分の目の前にいる一人でも多くの患者さんを自分の手で治療するために、次なる道、手術の腕の立つ猛者が集まる虎の門病院に移籍し、3年間ひたすら手術だけをやるという日々を送ったのです。