再び研究へ、そしてアメリカで起業
現場で患者さんを治療することのやりがいは大きかった。しかし、自分が治療できる患者さんの数には限りがあるうえに治療法のない眼疾患が少なくないという現実は変わらない変わりません。 眼科領域では新薬開発があまり進んでいなかったからです。悩んだ挙句、私は世の中に存在しない眼疾患の治療法につながる何かを自分が生きている間に成し遂げようと、もう一度、研究を中心にやっていこうと決意しました。そして、ワシントン大学から招聘を受け、2000年にシニアフェローとしてアメリカに渡りました。
科学の最先端を走るアメリカには世界から選りすぐりの研究者たちが集まってきます。彼らと切磋琢磨することで、もしかしたらより新しい治療法に巡りあえるのではないかと、私の期待は膨らみました。
ワシントン大学では網膜幹細胞における再生医療の研究に取り組んでいたのですが、なんとその研究から神経細胞を長期的に培養できる技術を発見することができたのです。それは応用範囲の広い技術で、化合物の効果を調べるスクリーニングに活かすことができます。その技術をもって2002年にシアトルにある自宅の地下室で起業しました。設立当初は受託型の創薬支援ビジネスでスタートしました。
とはいえ、いきなり大学教員を辞めたのではありません。大学教員とベンチャー企業経営者という二足のわらじをはいて事業の立ち上げに奔走していました。大学の産学連携の理事がそれを許し、起業から1年間の猶予をくれたからです。当時を振り返っても、どちらに専念するかを選択するには長過ぎず、短すぎない絶妙な助走期間でした。短すぎればあまりに不確定要素が多いためにベンチャーに専念することを断念したかもしれないし、長過ぎれば中途半端な状態に陥っていたでしょう。
こうして、私は研究のために渡米したアメリカで、起業の道を拓きました。