「人から聞いた答えでは、ダメ!」

人から聞いた答えではダメだぞ。
自分で坐禅をくんで、自分の考えを持ってこい、と……。
「さあ! 犬には、仏性があるのか? ないのか?」

前述のように、『無門関』の第一則は、こういう意味であった。

あるとき、趙州和尚に、ある僧が尋ねた。

「犬には、仏性があるのでしょうか? ないのでしょうか?」

タイの寺院の石のテーブルに休む野良犬
写真=iStock.com/Natapon Baokhun
※写真はイメージです

趙州和尚は、

「ない」

と、答えた――。

坐禅中に考える……。

「ない」という答えは、ダメだ。それは趙州和尚の答えだ。人から聞いた答えではダメだ。自分の考えを持っていけ!

よし、「ない」でなければ、「ある」だ。「ある」は、自分の答えだ!

いよいよ、独参。三拝、九拝をして老師に、迫る。老師はきびしい声で……。

「どうだ。犬には、仏性があるのか、ないのか? おまえさんは、どうなんだ」

思い切って大声で、わたしは、

「ある!」

といった。

鈴が、チリチリーンと鳴った。

老師は、静かな声で、いわれた。

「犬のどこに、仏性があるというのかね?」

「逆」の答えをいってみると……

こちらの答えがダメなとき――。
老師は、鈴をふって、チリチリーンと鳴らす。
それを「ふられた」と、いった……。

独参が終わると、「どうだった?」と、道友が、聞いてくる。

「ああ、ふられたよ!」

と……。女性に「ふられた」という言葉は、ここからくる。

さて、「ある」といってダメなら、やっぱり「ない!」か?

趙州和尚だって、犬に仏性は「ない」といっているではないか?

そうだ、犬に仏性などあるはずがない。犬に仏性は「ない!」のだ。

つぎの独参がやってきた。朝と夕と一日二回独参が、ある。

老師の前で、三拝九拝して、大声を張りあげ、自信を持って、いう。

「犬に仏性は、ない!」

と。

また、チリチリーン……。

老師は、知らん顔で、鈴をふった。