「人から聞いた答えでは、ダメ!」
人から聞いた答えではダメだぞ。
自分で坐禅をくんで、自分の考えを持ってこい、と……。
「さあ! 犬には、仏性があるのか? ないのか?」
前述のように、『無門関』の第一則は、こういう意味であった。
あるとき、趙州和尚に、ある僧が尋ねた。
「犬には、仏性があるのでしょうか? ないのでしょうか?」
趙州和尚は、
「ない」
と、答えた――。
坐禅中に考える……。
「ない」という答えは、ダメだ。それは趙州和尚の答えだ。人から聞いた答えではダメだ。自分の考えを持っていけ!
よし、「ない」でなければ、「ある」だ。「ある」は、自分の答えだ!
いよいよ、独参。三拝、九拝をして老師に、迫る。老師はきびしい声で……。
「どうだ。犬には、仏性があるのか、ないのか? おまえさんは、どうなんだ」
思い切って大声で、わたしは、
「ある!」
といった。
鈴が、チリチリーンと鳴った。
老師は、静かな声で、いわれた。
「犬のどこに、仏性があるというのかね?」
「逆」の答えをいってみると……
こちらの答えがダメなとき――。
老師は、鈴をふって、チリチリーンと鳴らす。
それを「ふられた」と、いった……。
独参が終わると、「どうだった?」と、道友が、聞いてくる。
「ああ、ふられたよ!」
と……。女性に「ふられた」という言葉は、ここからくる。
さて、「ある」といってダメなら、やっぱり「ない!」か?
趙州和尚だって、犬に仏性は「ない」といっているではないか?
そうだ、犬に仏性などあるはずがない。犬に仏性は「ない!」のだ。
つぎの独参がやってきた。朝と夕と一日二回独参が、ある。
老師の前で、三拝九拝して、大声を張りあげ、自信を持って、いう。
「犬に仏性は、ない!」
と。
また、チリチリーン……。
老師は、知らん顔で、鈴をふった。

