老師が求めている“本当の答え”
自分自身を静かに見つめる。内観する。静観する。
犬に仏性があるのか、ないのか?
……答えない。無視でもいい!
答えずに、無視していると、老師は、おそらく……。
「黙っているというのは、わからんことだね。しっかりしろ! どうなのだ。あるのか! ないのか!」
「ある」だろうと、「ない」だろうと、しっかり内観して、ぴったり自然の生命と自分の心が合っていれば、老師になんといわれようが、答えは、いくらでも自然に湧いてくる。この答えの自然発生の現象は、内観の修行の体験でよくわかる。
大切なことは、老師は、じつは、「ある」とか「ない」という答えを求めているのではないということだ。その修行者の「態度」や「声」によって、その人が内観の正しい坐禅の修行をしているかどうかを、見ていてくださる。
「ある」といっても、「ない」といっても、「黙って」いても、「わからない!」と叫んでも、老師は、修行者の修行しているそのときの心の内観の状態が、わかる。
老師のご指導は、「答え」ではない。老師は「修行者の内観・静観の修行のふさわしい態度」を注意して見てくださる。老師のご指導は、じつにありがたい!
「外」に目を向けすぎないこと
「ある」といってもダメ。「ない」といってもダメ。
「ある」でもないし「ない」でもない。
趙州和尚も、「ある」とも「ない」ともいっている。
大事なのは犬についての「正答」ではない?
うっかりすると、そこで禅問答はわからなくなる。
が……。大事なのは自分の内観! 自分の静観!
犬の仏性など「わかる必要がない」のだ。
「では、なにも禅問答なんていらないんじゃないか?」
どうか、そのようには考えないでほしい。
じつは、そんな「はてな?」の問答をつくって、あまり修行をしない禅宗の僧侶、または、よく坐禅はしても、とんでもない目的で修行している僧侶たちに与えて、シャカの内観の正しい坐禅、シャカが悟った自己開発の内観・静観(ジャーナ)の坐禅に導こうとしたのだ。
もちろん、専門道場の「無」のエキスパートの修行者は別とする。が、坐禅をくまない一般の方には、そのように禅問答をご理解いただければ、いいと思う。
まずシャカの悟りをよく理解する。
シャカの悟りとはなにか。あくまで、自分自身で、自分の体のなかに、いきいきと働いている天地大自然の生命のすばらしさを内観・静観し発覚することだ。
人の目は、「外」を見るようにできている。だれでも外は見える。
が、なかなか自分の「内」のすばらしさを観ることは、じつは、ちょっとむずかしい。
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