「いいところへきた」という言葉
また坐禅をくんで、独参!
こっちも負けていられない!
「ある!」
チリチリーン……。
「ない!」
チリチリーン……。
「ある」も、「ない」も、チリチリーン……。
そのうち……。
あっ、そうか、「ある」とか、「ない」ではないのだ。
わかった! さあ、独参!
はっきりと、胸を張って大声で答えた。
「あるでもないし、ないでもない!」
老師は、にこにこ笑って、チリチリーン……。
また、ふられた……。
そして、こうおっしゃった。
「いいところへきたけど、まだまだだよ」
そして、こうつづけられた。
「きみ、お釈迦さまは、どういう修行をなさって、どんなことをお悟りになったのか、そこを、ゆっくり学びなさい」
と、おっしゃった。
「いいところへきた」というお言葉がとてもうれしかった。
坐禅は「自分で自分を観る」修行
さて、あらためる。『無門関』の第一則だ。
「狗子仏性有りや、也た無しや」
犬に仏性があるのか? それともないのか?
――さあ、あなたの答えは?
もし、あなたが坐禅中、鼻から出入りしている呼吸の働きのすばらしさを発見して、その呼吸と自分が一体になるような状態になったら、この答えはすぐわかる。
坐禅は、あなたが自分で、自分自身の体の働きのすばらしい本質を観る。
とにかく、自分の内側を静かに観る修行だ。
だから「禅」は、サンスクリット語では、「ジャーナ(dhyāna/内観・静観)」というのだ。自分で自分を観ることだ。
「犬に仏性があるのか? ないのか?」
そんなことを理解するために坐禅の修行をしていたのか? ちがう!
シャカは、犬に仏性があるかどうかを解くために、坐禅の修行をしていたのではない。そこで若い修行者が、自分自身の内観をしっかり自覚して修行をしているのかどうかを、ドスンとこの第一則でぶっつけて確かめにきたわけだ。
なめるんじゃない! そんなひっかけにのるものか! そう思えば、いい。

