「いいところへきた」という言葉

また坐禅をくんで、独参!
こっちも負けていられない!
「ある!」
チリチリーン……。
「ない!」
チリチリーン……。

「ある」も、「ない」も、チリチリーン……。

そのうち……。

あっ、そうか、「ある」とか、「ない」ではないのだ。

わかった! さあ、独参!

はっきりと、胸を張って大声で答えた。

「あるでもないし、ないでもない!」

老師は、にこにこ笑って、チリチリーン……。

また、ふられた……。

そして、こうおっしゃった。

「いいところへきたけど、まだまだだよ」

そして、こうつづけられた。

「きみ、お釈迦さまは、どういう修行をなさって、どんなことをお悟りになったのか、そこを、ゆっくり学びなさい」

と、おっしゃった。

「いいところへきた」というお言葉がとてもうれしかった。

「理屈」を捨ててはじめて見えてくるものがある

坐禅は「自分で自分を観る」修行

さて、あらためる。『無門関』の第一則だ。
「狗子仏性有くすぶっしょうありや、也また無なしや」
犬に仏性があるのか? それともないのか?
――さあ、あなたの答えは?

もし、あなたが坐禅中、鼻から出入りしている呼吸の働きのすばらしさを発見して、その呼吸と自分が一体になるような状態になったら、この答えはすぐわかる。

坐禅は、あなたが自分で、自分自身の体の働きのすばらしい本質を観る。

とにかく、自分の内側を静かに観る修行だ。

日本の仏教僧が座禅
写真=iStock.com/SAND555
※写真はイメージです

だから「禅」は、サンスクリット語では、「ジャーナ(dhyāna/内観・静観)」というのだ。自分で自分を観ることだ。

「犬に仏性があるのか? ないのか?」

そんなことを理解するために坐禅の修行をしていたのか? ちがう!

シャカは、犬に仏性があるかどうかを解くために、坐禅の修行をしていたのではない。そこで若い修行者が、自分自身の内観をしっかり自覚して修行をしているのかどうかを、ドスンとこの第一則でぶっつけて確かめにきたわけだ。

なめるんじゃない! そんなひっかけにのるものか! そう思えば、いい。