被服廠跡が火に包まれるのは4時間後

火災は下谷区(現在の台東区の一部)や日本橋区・京橋区(いずれも現中央区)、芝区(現港区の一部)ではほとんど発生していなかった。そこに神田区(現千代田区の一部)・浅草区(現台東区の一部)・本所区(現墨田区の一部)などの火災が徐々に広がっていったのだ。

先の被服廠跡が火に包まれるのは地震からなんと4時間後。夜に入ると浅草の火が下谷に、神田から日本橋に、本所から深川に火災が燃え広がっていく。京橋区にも麴町区(現千代田区)あたりからの火事が延焼していき、さらに各地で火災旋風が巻き起こった。

火災旋風とは、広範囲な大規模火災の際に発生するもので、火炎が竜巻状になり、風速100メートルから200メートルもの猛烈な風が吹く。巻き込まれた遺体が15キロ離れた千葉県市川市まで飛ばされた、という記録もある。私は若い頃、行きつけの食堂の高齢女性から、「大八車が宙を舞っていた」という話を聞いたことがある。

警察も「ここなら安全」と誘導した

被服廠跡は文字通り、陸軍の軍服工場があった跡地だ。江戸時代に幕府の倉庫があった場所に明治政府が建設したが、近代化などのため1922年に移転し、敷地は東京市が公園化するため、7万平方メートルもの空き地となっていた。

このため、警察も「ここなら安全」と多くの避難民を誘導した。だが多くの人が布団やタンスなど着火性のものを持ち込み、数万人が集まったため身動きできない状態になっていた。

そこに周囲からの延焼が襲い掛かり家財道具などに燃え移った。また火炎に巻き込まれなくても輻射熱で火がつき、さらに火災旋風が周囲の酸素を奪うため、体は無傷のまま酸欠死する場合もあった。そうしてこの場所だけで3万8000人が亡くなる。

関東大震災で被災し犠牲となった児童らを弔うために作られた像
関東大震災で被災し犠牲となった児童らを弔う「震災遭難児童弔魂像」(写真=Narumi.SBT/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

震災後に起きた火災は、深夜には浅草・神田・日本橋・京橋・本所・深川の各区をほぼ焼きつくし、さらに下谷区、芝区に燃え広がっていった。翌未明には芝区の北半が焼け、下谷の火は上野公園に迫ったが、すんでのところで公園内に避難していた人は助かった。公園の木が火を防いだともいう。鎮火はほぼ2日後の46時間後だった。