責任を取るとは、命じた結果を自分で負うこと
岡田の姿を並べると、「責任を取る」という一つの言葉が、三つの動作に分かれることに気づく。
一つは、責任の置き場所を定めることである。命令した上官、実行した部下、止めなかった指揮官。誰が負うのかが問われる法廷で、岡田は自分を命令者の位置に置き、実行した部下の責任を引き受けようとした。
二つめは、反論と両立させることである。処刑の正当性は争う。しかし、命じた責任は引き受ける。罪と責任を分けたことで、米軍への反論と責任の引き受けは、一つの筋でつながった。
三つめは、結果を引き受けることである。絞首刑という結末は、その最後に来たに過ぎない。
もっとも、岡田が引き受けた責任は、ここまで見る限り、部下と自分に向いたものだった。米軍が裁判を経ない処刑と認定した27人、そして遺族に向けた責任は、問いとして残る。
「責任を取る」という言葉は、現在も政治の場で頻繁に使われる。辞職を指すこともあれば、「責任を痛感する」という言葉で終わることもある。何についての責任なのか。誰が決めたのか。結果を誰が負うのか。岡田の姿は、その三つを手放さなかったように見える。
岡田の死から77年を経てもなお、この裁判は、責任を取るとはどういうことなのかを問い返してくるのである。
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