死を前にした“にわかな信仰”ではなかった
この信仰は、収監後に死への恐怖から縋ったにわか信仰ではない。岡田は『毒箭』の序で、法華経の解読に取り組んだのは1920年の秋、陸軍大学校の1年生のときだったと振り返り、その頃から念珠を常にポケットに入れ、日曜日には教団の講演を聴きに行ったと記している。
予が曾て始めて法華経を通読したのは三十一歳の夏である。指導者は戸谷好雄氏であった。大正九年の九月である。陸大一学年に学んでいたわれは牛込矢来に住んでいたので、夕食後の散歩は護国寺にいたる大通りを神田上水を渡る辺までその領域としていた。仲々人出の賑かな夜店の多い時である。途中の辻に大抵の夜日蓮信行会の高張提灯をあげて説法陣を張っている人々がいた……
岡田は、当時隆盛を誇った田中智学の国柱会の文書にも触れていた。国柱会は、日蓮主義を掲げて国体と法華経を結びつけた団体で、宮沢賢治や石原莞爾が影響を受けたことでも知られる。ただ、岡田の結論は国柱会の主流とは微妙にずれている。随想にはこうある。
民族国家永遠の生命感に立てば、今次の苦験はけだし一度は体験すべきものであったかも知れぬが、人間の一生や二生の立場で観察するならば一代失敗であるに相違ない。
法廷の勝ち負けで生死を測らなかった
「民族国家永遠の生命」は、国柱会的な語彙である。しかし岡田はそこから国家のための結論を引き出さない。「人間の一生や二生の立場で観察するならば一代失敗」という言葉は、民族や国家ではなく、一個人としての自分の生死に向いている。国柱会の語彙を借りながら、行き着く先は個人の死生観だった。
戦後、岡田の法華経信仰を強く前景化したのは、国柱会系の人々だった。
1975年刊行の追悼集『ああ岡田軍司令官』(成田喜久基編)には「本化菩薩としての恩師岡田資先生」といった項目が並び、1982年には日本国体学会の機関誌『国体文化』第718号に、溝口広之輔「岡田資中将と法華経信仰」が載った。信仰を同じくする側からの顕彰である以上、そのまま受け入れることはできない。ただ、「国際法の戦士」という像だけでは説明がつかないものが岡田に残ることも、確かである。
岡田は、自らの生死を法廷の勝ち負けで測っていなかった。判断の尺度が、裁く側の論理の外にあったのである。反論も、責任の引き受けも、勝敗のための戦術ではなかった。

