米軍人の処刑を否認せず、B29爆撃の合法性を争った

5月14日、名古屋は大規模な焼夷弾攻撃を受けた。名古屋城も炎上し、市街地の広い範囲が焼失した。この日を含む東海地方への空襲で撃墜されたB29もあり、その搭乗員たちも、日本軍の手に落ちた。

東海軍は、捕らえた米軍搭乗員のうち、軍事目標のみを攻撃したと判断した者は捕虜として扱う一方、都市への無差別爆撃に参加したと判断した者を「戦争犯罪人」として処刑した。最終的に38人が処刑されることになる。米軍側は戦後、このうち11人について行われた手続きを適法な裁判とは認めず、さらに残る27人については裁判を経ないまま処刑されたと認定した(U.S. Eighth Army, Judge Advocate n.d., 5–7)。

戦後、岡田と部下たちは、この処刑をめぐってBC級戦犯として訴追された。

岡田資
岡田資(写真=ウェブサイト「映画『明日への遺言』と岡田資中将の信仰」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

1948年3月8日、横浜で米第8軍の軍事委員会による「オカダ・ケース」の審理が始まった。ここで岡田側は、単に処刑への関与を否認する道を選ばなかった。

主任弁護人となった米国人弁護士ジョセフ・フェザーストーンは、B29による都市爆撃そのものの合法性を争った。民間人を無差別に殺傷する爆撃が戦争犯罪であるなら、その搭乗員を戦争犯罪人として裁く権限が日本側にもあったはずだ――という論理である。岡田自身も、米軍による無差別爆撃は国際法に反すると主張し、処刑の背景にあった判断を正面から争った。

処刑の罪は認めず、命じた責任だけを負った

その一方で岡田は、部下の行為について自らの責任を否定しなかった。処刑は司令官である自分の方針と命令のもとで行われたものだとして、部下の責任を軽くしようとする姿勢を崩さなかった。

命令した上官か、実行した部下か、止めなかった指揮官か。冒頭の問いに照らせば、岡田は自分を「命令を下した上官」の位置に置いたことになる。処刑を実行した部下は、あくまで命令を受けた側である。責任が問われる法廷で、岡田は誰が負うのかという問いに、自分の名前で答えたのである。

しかも、それは何も争わずに責任を認める姿勢ではなかった。処刑の正当性は争ったまま、その責任だけを自分に引き取ったのである。

米軍への反論と、自らの責任の引き受け。一見すると、この二つは矛盾する。処刑が正当だったと争うなら、責任を認める必要はない。責任を認めるなら、争う意味が薄れる。

しかし、二つは一つの筋でつながっていたと読むことができる。岡田にとって、搭乗員は無差別爆撃を行った戦争犯罪人であり、その処刑は正当な措置だった。正当な措置であれば、実行した部下に罪はない。ただ、その措置を命じたのは自分である。だから結果の責任は、命じた自分にある。

ここで岡田が分けているのは、罪と責任である。処刑を罪とは認めず、しかし処刑を命じた者として責任は負う。「責任を取る」とは、非を認めることと同じではなかった。この区別があったから、米軍への反論と責任の引き受けは、矛盾せずに並んでいたのだろう。