「まだ救う余地がある」と思っていたが…
批判する者はまず実行せよという言葉がある。実際にやってみて、はじめてわかる事情や状況があるので、安易に批判すべきでないということだ(それなら実行者以外は批判できないのかとの反論もあるけれど)。
医療は絶対に安全であるべきだというのもわかるが、やる側からすれば打率10割を求められても困るとも言える。必要なのは歩み寄り。医者は絶対安全を目指し、患者と世間は可能なかぎりの安全で満足するということか。
やりすぎる医療の弊害と言えば、悲惨な延命治療もその典型だろう。医療は命を延ばすことを使命として発展してきたが、それが人の尊厳を奪うことになったのは、皮肉としか言いようがない。
私も新米外科医のころ、患者を死なせまいとして取り返しのつかない状況に陥ったことがある。
手術後に重症になった患者さんに、人工呼吸、中心静脈栄養、輸血、抗生物質、強心剤、ステロイド等の多剤投与、人工透析まで施して、全身の浮腫、黄疸、出血、下血、吐血、意識障害、肺水腫、肝不全、腎不全を引き起こし、2週間ほどどうしようもない苦難の治療を続けた。
私がそこまでやったのには理由があった。先輩の外科医が、まだ患者さんを救う余地があるのに、治療をせずに死ぬに任せていたことに、義憤に近い疑問を感じていたからだ。
自分は最後までベストを尽くす。そう思って、カンファレンス(検討会)で、上司の副院長に「とことんやります」と宣言した。
同席していた外科医たちは白けた顔だったが、副院長は「まあ、やってみろ」と許可してくれた。
病室に充満した「耐えがたい悪臭」
患者さんの容態が悪化して、多臓器不全になったとき、病室にポータブルの人工透析器を運び入れようとすると、病棟の看護師がイヤな顔をした。準備と後片付けが面倒だからだ。それでも私は治療をやり続けた。
人工呼吸器をつけているので、鎮静剤で眠らせていたが、徐々に患者さんが水死体のようにむくみ、黄疸で皮膚が黄色から褐色になり、口や鼻だけでなく目からも出血し、肛門からはコールタールのような血便が、輸血で入れたのと同じだけあふれ出し、顔は変貌し、気管チューブ、胃チューブ、腹部のドレーン(排液チューブ)、中心静脈栄養の点滴ルート、輸血ルート、導尿カテーテルと管だらけになって、心電図は早鐘のように甲高い音を立て、人工呼吸器の作動音がせわしなく空気を送り、病室には耐えがたい悪臭が充満した。
先輩の外科医たちは、あきれてものも言えないという顔で私の治療を見守り、看護師たちも冷ややかな非難の視線を私に向けた。
副院長が延命治療を許可したのは、私にその悲惨さを身を以て体験させるためだったのかもしれない。当時はまだ「尊厳死」という言葉もなかったが、先輩外科医たちはやりすぎの医療が引き起こす悲惨を知っていたのだろう。
治療は適当なところでやめるのがいい。だが、それは医療者が口にできない言葉だった。世間から、「命を見捨てるのか」「ベストを尽くさないであきらめるのか」「手抜き医療」「医師の怠慢」などと、激しい非難が起こるからだ。

