「赤い宮様」を諫めた元・賀陽宮
続いて、賀陽恒憲氏――かつての賀陽宮恒憲王――について述べよう。
戦前には平民的な「野球の宮様」として親しまれていた賀陽氏だが、そんな彼も非常に保守的な思想の持ち主だったようだ。日本国体学会を率いた思想家・里見岸雄氏が、賀陽氏について興味深い証言をしている。
里見氏は昭和27(1952)年3月、自身が創刊した月刊誌『国体文化』に「三笠宮に捧げる公開状」を掲載した。その内容は、歴史学者として「建国記念の日」制定に反対なさっていた三笠宮崇仁親王への諫言である。
彼はその頃、大阪より汽車で帰京する途次、名古屋からたまたま乗ってきた賀陽氏と隣の席になり、しばらく会話を交わしたという。賀陽氏はこの時、「先生がつねに国家の為め皇室の為め一方ならぬ御奮闘を下さいます事に深く敬意を表しております」と里見氏を称え、次いでこう語ったそうだ。
「殊に、さきごろの三笠さんに対する御諫言の御論文は、まことに有り難く拝見いたしました。あの雑誌は私からも三笠さんに一部差しあげてお読み願いたいと申し上げておきました」――『国体文化』(第595号、昭和47年4月)36頁。
このエピソードに関しては、今のところ「汽車の中で賀陽氏に会ってそう言われた」と里見氏が主張しているだけであって、実際にあった出来事だと確認できているわけではない。だが、戦後の賀陽氏について調べてみると、少なくとも彼の行動として違和感のないものには感じられた。
「反共戦士」を称して台湾訪問
賀陽氏は昭和49(1974)年3月11日から5日間にわたり、「中華民国」を称する台湾を訪問している。当時の『台湾総覧』によれば、「旧宮家の訪台は戦後初めてのこと」だという。
問題は、これが一民間人としての単なる遊覧旅行ではなかったことだ。日中国交正常化(=日華断交)からまだ2年程度というセンシティブな時期に行われたこの訪台中に、賀陽氏は次のような談話を発表しているのである。
「日本の皇族を代表して、中華民国に対する謝罪、蒋総統に対する最高の謝意を表明するために訪華した。また、戦時中の日本軍部首脳の資格で忠烈祠にも参拝し、抗戦のために殉じた中華民国軍将兵の英霊に敬礼する。反共戦士の一員として、日華両国の民間交流増進と両国国交の早期回復に尽力をつづける」
この談話は、台湾政府の機関紙『中華週報』に取り上げられ、わが国の国会にも波及した。5月9日、参議院議員の星野力氏(日本共産党)が、当時の田中角栄内閣の外相・大平正芳氏にこう迫っているのである。
「元皇族というのは、法律上はともあれ、実際的には特殊の身分であります。そういう身分の人物が、右翼団体と同じ立場で、多数国民の願望に挑戦するかのように日中国交回復に反対して騒動しておる、すこぶる穏やかでない問題だと思う」
筆者としては、皇室制度への姿勢などから日本共産党に対しては思うところもあるが、この件についてはまさにその通りだとしか言いようがない。
ちなみに、彼の長男である賀陽邦寿氏(元・邦寿王)もまた右派的な方であった。彼は昭和43(1968)年の参議院選挙に際して「保守系無所属」を名乗り、「靖国神社国家護持の実現」などを掲げて出馬している。
