旧浅井家臣でリストラされた武将
一方、近江衆は文官が多い。もちろん旧浅井家臣の有力部将もいたはずだが、淘汰されたようだ。たとえば、浅井攻略時に寝返った阿閉貞征は年齢不詳だが、子の阿閉貞大も部将であることから、秀吉と同年代か年上と思われる。阿閉父子は秀吉の与力とされたが、秀吉からの圧迫があって次第に険悪な仲となり、信長の直轄軍に編入されたようだ(『織田信長家臣人名辞典』)。秀吉はこの年代の旧浅井家臣を配下に加えることを好まなかったらしい。
そして、「③秀吉より15歳以上年下」であるが、尾張衆・美濃衆は福島・加藤を除けば、秀吉家臣の二世しか居ない。かれらは親の代から秀吉に仕え、秀吉から見れば譜代家臣といってもいいだろう。換言するなら、秀吉は二世家臣と親戚(福島・加藤)以外には心を許さなかったとも言える。近江衆は「②秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで」の部将が淘汰され、若手の部将しか残らなかった。秀吉が長浜城主になったのは39歳。片桐且元がちょうど20歳。新入社員と中堅課長くらいの関係で、秀吉もかれらの忠誠心を信じたことだろう。
トップに立ち、忠誠心が厚い若手を抜擢
賤ヶ岳の合戦の時、秀吉家臣団の構成は、苦楽をともにしてきた「①秀吉より9歳以上年上」の蜂須賀正勝・前野長康らが老齢に差しかかり、世代交代の時期に入っていた。しかし、「②秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで」の一門衆は戦上手とはいえず、美濃衆に頼らざるを得なかった。
この年代の近江衆が淘汰されたことが示すとおり、秀吉は同年代の部将をあまり好まず、忠誠心のある若手「③秀吉より15歳以上年下」層を好んだ。「賤ヶ岳の七本槍」は後世の作家が命名したものであるが、秀吉は若手の活躍をアピールすることで、かれらの抜擢を容易にしたに違いない。
これは現代の会社などでもよくあることだろう。のちに社長になる人物が、平社員から課長へ、部長へ、そして重役へとスピード出世していく段階で、自分を引き上げ支えてくれた人が自分より年上か同世代だったとしても、社長就任後は一転、自分に対してロイヤルティの高い年下を抜擢し、重用するようになっていく。意志決定はしやすくなるが、社長にとって“耳に痛い”意見を言う者はいなくなる。
天下人となった秀吉もそうしたのだが、これが結果的に豊臣家のためになったのか。400年以上前のこととはいえ、人材登用の難しさを感じさせるエピソードではある。
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