尾張の名門のプリンス・平野長泰

福島正則の父は番匠や大工、加藤清正の父は刀鍛冶という説があり、いずれも出自は高くない(秀吉自身の出自が低いので、親族が高貴な家柄のわけがない)。それに比べ、平野長泰は城主クラスの子である。平野家は「津島七党」の一つに数えられる名家で、長泰の祖父・平野入道万休まんきゅうは尾張国海東郡津島の奴野ぬのや城(愛知県津島市)の城主。父・平野長治は信長・秀吉に仕えた(『寛政重修諸家譜』)。「豊臣兄弟!」で平野長泰は秀吉が長浜城主になった時に家臣に応募・採用されたと描かれていたが、実際は父の代から秀吉の与力だったのだ。

落合芳幾画「太平記英勇伝七十一:平野権平長康」(東京都立図書館所蔵)、慶応3年(1867)
落合芳幾画「太平記英勇伝七十一:平野権平長康」(東京都立図書館所蔵)、慶応3年(1867)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

浅井家家臣の子、脇坂安治と片桐且元

脇坂安治と片桐且元かたぎりかつもとは旧浅井家臣の子として生まれた。父の身分は且元の方が高かったようである。安治の父は脇坂外介安明だが、且元の父は片桐肥後守直貞と、受領名を名乗っている。直貞について『戦国大名家臣団事典 西国編』では「小谷城のふもと、須賀谷に居住し、小谷城の要害の一つをなす」と記されており、重臣クラスであったことがわかる。後年、秀頼の家老に抜擢されたのは、浅井家出身の淀殿の意向があったのかもしれない。

脇坂安治像(龍野神社所蔵)、江戸時代(1627年)
脇坂安治像(龍野神社所蔵)、江戸時代(1627年)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
片桐且元像(大徳寺塔頭玉林院所蔵)の模写(部分)
片桐且元像(大徳寺塔頭玉林院所蔵)の模写(部分)(写真=PD-Japan/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

ちなみに、脇坂安治は浅井家滅亡後、明智光秀の与力を経て、秀吉の与力になった。丹波黒井城攻めにてわずか15歳で武功をあげた。これが秀吉の目に留まり、秀吉に懇請されて与力になったという。