あっけなく落城した意外な理由
同年8月22日、池田輝政率いる東軍の軍勢が木曽川を渡ると、秀信は自ら出陣。迎え撃つも敗退してしまい、岐阜城に戻った。家臣からは「籠城しましょう」という意見も出るなかで、秀信は岐阜城を守る稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺山砦を固めた。
そんな秀信の決断が、結果的には兵力を分散させることになった。翌23日、東軍1万8000人の猛攻を受け、岐阜城はわずか1日で陥落してしまう。東軍があっさりと岐阜城を攻略できたのには、理由がある。
東軍側の池田輝政は、岐阜城主を約5年にわたって務めており、前述したような弱点も含めて、城の構造を熟知していたのだ。
時代についていけなかった岐阜城の運命
関ヶ原の戦い後、慶長6(1601)年、徳川家康によって岐阜城は廃城とされた。替わって入った奥平信昌は、金華山の3.5キロほど南に加納城という平城を築く。
山城は籠城に不向きだが、平城なら中継拠点として機能する。戦略の変化が、岐阜城の運命を決めることとなった。難攻不落と謳われながら、籠城戦には不向きだった岐阜城。信長はその弱点を理解したうえで、「見せる城」として活用した。
しかし時代が籠城戦を求めるなかで、この城は1日で陥落するという、ざんねんな運命にあったと言えるだろう。
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