あっけなく落城した意外な理由

同年8月22日、池田輝政いけだてるまさ率いる東軍の軍勢が木曽川きそがわを渡ると、秀信は自ら出陣。迎え撃つも敗退してしまい、岐阜城に戻った。家臣からは「籠城しましょう」という意見も出るなかで、秀信は岐阜城を守る稲葉山砦、権現山ごんげんやま砦、瑞龍寺山ずいりょうじさん砦を固めた。

そんな秀信の決断が、結果的には兵力を分散させることになった。翌23日、東軍1万8000人の猛攻を受け、岐阜城はわずか1日で陥落してしまう。東軍があっさりと岐阜城を攻略できたのには、理由がある。

東軍側の池田輝政は、岐阜城主を約5年にわたって務めており、前述したような弱点も含めて、城の構造を熟知していたのだ。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

時代についていけなかった岐阜城の運命

関ヶ原の戦い後、慶長6(1601)年、徳川家康によって岐阜城は廃城とされた。替わって入った奥平信昌おくだいらのぶまさは、金華山の3.5キロほど南に加納城かのうじょうという平城ひらじろを築く。

山城やまじろは籠城に不向きだが、平城なら中継拠点として機能する。戦略の変化が、岐阜城の運命を決めることとなった。難攻不落と謳われながら、籠城戦には不向きだった岐阜城。信長はその弱点を理解したうえで、「見せる城」として活用した。

しかし時代が籠城戦を求めるなかで、この城は1日で陥落するという、ざんねんな運命にあったと言えるだろう。

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